〜沖縄戦の証言 DVD 販売中です〜

【私の沖縄戦体験から】
古堅 実吉
〜目の前に戦(いくさ)がやってきた〜

鉄血勤皇隊として召集され、沖縄戦を体験した古堅 実吉さん。
当時、14歳だった彼が91歳となったいま、その体験と沖縄戦の真実、戦の語り部の貴重な言葉で、伝えたいメッセージを カメラの前でお話しいただきました。
その貴重な証言DVDをたびせんにて販売いたします。

DVD:1枚2,000円(税別・送料別)

*大口の予約・購入は割引もあります。


〜ご購入いただいたお客様からのご感想を紹介します〜

古堅実吉さんと私の父は、同じ首里の第32軍司令部壕で従軍していました。
戦後もお付き合いがあり、数年前にハワイの捕虜収容所で行われた慰霊祭に一緒に参加しました。
古堅先生は、「なちぶさー」(泣き虫)でかつてのホノウリウリ収容所跡とパールハーバーの戦艦ミズリー号の船上で涙を流していました。
戦艦ミズリー号の降伏調印式の場面では、「やっぱり戦争は、負けたのか」とぽつりと一言。
私は、このDVDの中で古堅先生が、背広の襟に涙を落とす場面に歴史真実と友への思いを見た気がして、3度目の貰い泣きをしてしまいました。

M.Fさん(男性)62歳

わずか15歳で「学徒兵」となった古堅さんの記憶力の鮮明さは何によるのだろう。
南部・摩文仁への撤退途上にでくわした、母親の遺体の上を這いまわっていた赤ちゃんの姿。救えなかった(救わなかった)小さな命の記憶が、91歳の今も古堅さんを苦しめ続けている。

あの子はあの後、親切な誰かに救われたと思いたい。けれど…と、死ぬまで自分を苛み続ける記憶のなかで、古堅さんは戦後を生きた。
古堅さんの証言は、もし私なら、もし私の子どもなら…と戦争を、沖縄の体験を、身近に引き寄せて考えさせてくれた。
117分をちっとも長いと感じなかった。

A.Fさん(女性)63歳

これまで、原爆被害や満州開拓団員の逃避行などいろいろ聞いてきましたが、古堅さんの体験談は、戦争の現場を直接体験した方だけができる話で、説得力がありました。
そして沖縄師範学校の鉄血勤皇隊員である級友の死を思い出し、涙する古堅さんの誠実な人柄もよくでていました。こどもにも見せたいとおもいます。

Y.Kさん(男性)74歳

92歳になられた古堅さんはお変わりなくお過ごしでしょうか?
15歳の時の体験をこのように鮮明に言葉にできる方はやはり貴重ですね。私は東京に住む68歳主婦です。沖縄終戦記念日が6月23日であることは知っています。
が、古堅さんのお話で、「鉄血勤皇隊」の存在を知りました。やっと学校に入って学ぶことを楽しみにていた14歳の少年が学徒部隊として動員されていく…美しかった海や木々の緑がアメリカ軍の銃撃で壊されていくのをただ見るしかなった少年時代の古堅さんの気持ちが伝わってきます。
摩文仁へ撤退されたときに目撃された母親の胸のあたりを這いずり回る赤子の事が75年間、気になっている古堅さんの誠実な言葉に感動しました。本当にあの子はあれからどんな運命をたどったのでしょう?
あの当時にあのように話された野田校長先生は本当にすごい方ですね。その言葉に勇気づけられて「死ななくていいんだなあ。生き残ってよいのだな」とやっとはっきり思えたのですね。古堅さんがいい校長先生に出会ってられてよかった。
とても意味のあるDVDになりましたね。ありがとうございました。友人に観ることを勧めてみます。

S.Sさん(女性)68歳

淡々とした語りの中、あの沖縄戦時、師範学校生であった古堅実吉さんの思いがひしひしと伝わってきました。
第32軍司令部の無謀さ、師範学校生の避難壕であった「留魂壕」で亡くなった学友の様子、さらに摩文仁への敗走時の出来事など語る古堅さんの表情からも、戦争への怒りや無念さが伝わってきました。
たたかい続けなければ平和は実現しません。このDVDは平和運動、平和学習への大きなメッセージだと思います。

T.Uさん(男性)70歳

入手した古堅証言のDVDは何度も観ました。
これからも観ます。
また、入会している治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟・岡山支部(うち、備南支部女性部)でも観ます。

政治情勢の分析とは別に、古堅さんが首里の師範学校へ出向くとき、いつもの玄関までの見送りとは異なり、お母さんが何メートルも付き添って送った、という話は、お母さんを思いやり、涙してしまいます。

その後の日々は、まさに戦争が降ってきた、というわけで、もう、ただ事態に対処するばかりですね。
終わりのほうで、古堅さんが、戦死者の名前を指でなでるのを見るのも涙が出ます。

戦陣訓というか、捕虜になることを禁止する日本の支配勢力の身勝手なやり方は許せないです。
自決させるような不自然なことを、当然のようにさせる…、恐ろしいことです。

支配下の人々の精神的束縛をどのように強化していったか、初めはどうだったかに関して、松本清張の『象徴の設計』という作品がありますね。
明治の支配集団、とりわけ山縣有朋の考えをよく、表していると思います。
いったい、支配ということは、ほんとうに、他人を、駒のように扱うのですね。

私は1943年(昭和18)生まれで、戦争の恐怖や飢えの記憶がありません。
4人兄弟の末っ子で、12才上の姉、10才、8才上の二人の兄らは、恐怖も戦後の飢えも知っています。
私は戦争に関係することでは、或るとき父が畳の上にゲートルを巻いて土足で立っているのを変だと思って見ていたこと、また、終戦の時だったのでしょう、灯火管制のための黒い布を電灯からはずしたこと、を鮮明に映像として覚えています。

姉は順調なら医者になりたかったとのことですが、女学校では落下傘を縫ってばかりいたといいました。
二人の兄は、学童疎開の最上と最後の学年で、湯河原へ行きました。
上の兄は、理由のないビンタを受けたと言っていました。
下の兄は、訪ねていった母との対面の時に、畳にきちんと手をついて、「ようこそおいでになりました」と他人行儀の挨拶をするのだったと母が言っていました。そういうものでしょうか。

私だけ遅かったので、祖母の生まれかわりと言われ、祖母に会っていません。
新憲法の下に小学校で、いわゆる戦後民主主義の教育を受けたのだと思います。
長ずるにつれ、いろいろ学び、アジアに対する侵略や、自国内でも沖縄への差別的支配や戦争に反対する人々への弾圧を知りました。

家庭では、叔父(母の弟)が、シナ事変で戦死しています。
祖母(母の母)は、出征の時に「生きてお帰りなさい」と言って送り出したとのことです。

横浜、鶴見の加納部隊の全滅は有名で、その話を聞かされて育ちました。
叔父の戦死が分かったとき、祖母は脳溢血の後遺症で動けず、布団に横たわっていました。
そこから鴨居に飾ってある叔父の写真をいつもじっと見ていたと母から聞くたびに、祖母の気もちを思いやって涙せずにはいられません。

父は近眼のため、徴兵検査に合格せず、家にぶらぶらしていました。
シェルという英国系会社だったので、強制的に退職させられ、関連の日系会社にいったとのことです。
会社には米兵も居たりして、お酒の席では「あなたたちは早く国へ帰らなければいけない」と言っていたそうです。

叔父の葬儀は(鶴見で公式な合同葬だったとのことです)、父が男手で時間もあることで、一切を世話しました。
或る場面でみんなが静かにしているところへ、一人の婦人が駆け寄り、「息子をかえせーっ」と大声で泣きくずれた場面があったそうです。

だれもそれを咎めず、でも、何も言えずにいたと、母が言っていました。
葬儀参加者はだれもみな、心の中で同じ思いだったのだと思います。

横浜では、港の一等地の横浜公園が接収され鉄条網で囲まれ、長らく市民は入れませんでした。
また、別の一等地には、米軍家族の家が建っており、庭の芝がきれいにかられ、主婦が洗濯物をロープに干していたり、ゆとりある家庭生活が、市電で中学校へ通う途中で垣間見られました。

もっと幼いときは、家のそばの道路に、GIとパンパンが手を組んで歩き、抱えている丈夫な紙袋からお菓子を道路に撒くのです。
子どもたちは、先を争って拾うのですが、私はすでに屈辱という感情をもち、決して拾いませんでした。
また、かれらはしばしばチューインガムを嚙んでおり、その光景につながるので私は今でも、ガムを噛めません(噛むのが嫌です)。

私自身は現在は、民主的な活動団体に属して活動しています。
そこで一緒に活動する高齢の多くの人々が、自分は軍国少年だったとご発言です。
どのように、考えを変えていったかを、知りたいと思います。
とにかく、私自身は戦争の実情がわかっていませんので、戦争の実態も、関連事項も、沖縄のことも、出来るだけ知ろうとしています。

しかし、幼い時に私が感じていた”屈辱”は、米兵に対する敵対心由来であり、戦争に負けたという感情であると思うと、敵と戦う気持ちでいたわけですから、やはり軍国少女なのでしょう。天皇にはまったく感情を持ちませんが。
私がどのように、そのような感情を整理していったか、の過程と、皆さんの状況は基本は同じなのではないかと、今でもたびたび吟味しています。

今では、パンパンの実情も理解でき、また、原爆を落とされるに値する侵略行為を日本自身が対アジアに、国内では沖縄や反戦を掲げる人々へもしていたこともわかります。
けれども、たとえ日本が大きな加害をしていたとしても、原爆投下はそれを止めるためではなく(もはや、敗戦は分り切ったことでしたから)、アメリカの戦後を見通した戦略です。
投下の非人道性が許されないものであることも理解し、非難しています。

長い間の、被爆者をはじめ、私たちの非核を求める者の活動が、今年の1月22日についに、世界における核兵器禁止条約の発効という段階に至ったことを、実に、よくこそなった、との思いで受け止めています。
最近の日本の政治情勢はアベ・スガ政権で、憲法も危ういところに居ますし。

それでも、民主主義が進むこと、多くの人を信頼できることがわかります。
それに、今では世界の市民(権力を持たぬ人)が、1%対99%の意識を持ち、このような格差の原因にも考えを深めていることを思うと、これからも少しでも長く生きて、どこまで資本主義が否定されるか、民主主義が進むか見届けたいです。 

H.Sさん(女性)77歳

 沖縄の海に惹かれ6回も訪れながら歴史については全くの無知でしたが、6年程前、地元の九条の会の主催する“高江ヘリパット建設”についての講演会に参加したことをきっかけに、沖縄の現状や歩んできた歴史、地上戦のことを知るにつれ、不条理が自分の住んでいる国で普通に続けられている現実に驚きました。

 15歳で突然「鉄血勤皇師範隊」として召集され、首里城地下の壕を行き来しながら同僚と発電作業に従事したこと、摩文仁へ撤退するときの地獄のようなありさま、収容所でのこと…実際に体験した人のみが知り得る事実と心のありようを、古堅さんは感情を抑え静かに朴訥な語り口でお話してくださいました。健児の塔の前で手を合わせ「予科一年古堅実吉です」と名のり、刻まれた名前を指でなでながらその人のことを語り、寄り添うように佇んでおられる姿を見ると、76年前に亡くなった方たちと生き残った人の“命”とか“時間”の感覚があいまいになり、私の想像をはるかに超えたところにある古堅さんの心を想いました。

 イスラム教徒の友人は一日に5回神さまにお祈りをします。人間は愚かだから一番大切なこともすぐ忘れてしまう、一日5回お祈りすることで神さまを忘れないようにする――人間が国のために戦争に巻きこまれるという悲劇を二度とくり返さないために、私たちは忘れてはならないことが絶対にあります。DVDに添えられた古堅さん実筆の資料は沖縄戦についての歴史や沖縄の現状、日本やアメリカの動きの中での古堅さんたちの体験が、簡潔にわかりやすくまとめられています。
この資料とDVDが学校教育の場で活用されれば、日本の将来をになう子どもたちにとっても最高の平和教育の教材となると強く感じます。

良い出会いをいただきありがとうございます。

安藤実紀さん(女性)54歳

古堅実吉さんのお話しを聞いて沖縄県の悲劇を改めて思いしらされました。古堅さん、今後も元気にお過ごし下さい。

H.Oさん(男性)75歳

古堅実吉氏1929年7月生、私1930年3月生。15歳で終戦、全くの同期である。同じ仲間世代にこういう境遇で過ごした方に親近感を覚える。沖縄戦と同じ時期、私は甲種飛行予科練の教程訓練が終了し、茨城県の霞ケ浦(現在阿見町)、第10航空艦隊に配属され、山の中に設けられていたバラック木造の隊舎で過ごしていた。

もはやその日暮らしという山の中に隠れた軍隊であった。衛門の衛兵ということで毎日の仕事は立哨(入口の門番)である。上等飛行兵の腕章をつけた15歳の少年兵。一方では古堅氏のような苛酷な沖縄戦を体験していたのだと思うと、想いはより深い。

宝塚航空隊から茨城県荒川沖の山中の兵舎に移動する際、引率責任者分隊士(慶応出身学徒出陣で徴用)がはじめて新聞(もう当時は新聞はA3判大1枚のもの)をみせてくれて「沖縄は終わったぞ」と告げられた事が強い印象として残っている。ちょうど6月の終わりだったか。

このDVDの氏のとつとつと語られる体験談を我がことのように、私の場合の体験を思い出して共感した次第。

T.Yさん(男性)91歳

 

 

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