古堅実吉さんの沖縄戦証言DVD収録に同行して


みなさんこんにちは。たびせん社員の前田です。

今回は、古堅実吉さんの沖縄戦証言DVDを作製するにあたり、収録に同行した様子と編集後記をこちらに綴らせていただきます。



〇「命を削ってでも伝えたい」思い

 10月下旬のある日、沖縄は真夏を思わせる強い日差しで気温もグングン上昇していました。

そんな中、今年(2020年)91歳になる古堅実吉さんは背広にネクタイという端正な服装で、自らが体験した沖縄戦の現場へと私たちを案内してくれました。

 後をついていく私たちの方が暑さに音を上げそうになるなか、古堅さんのしっかりとした足取りと、決して激することのない静かな語り口ながら「熱」を帯びたそのお話には、「命を削ってでもどうしても伝えておかなければならない」という強い思いがひしひしと感じられました。

 

〇瀬長亀次郎の後継者として

 戦後の米軍占領下でも平和と民主主義を求めて「不屈」にたたかった瀬長亀次郎(故人)。
その姿は「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」という映画でも紹介されています。現在でも「カメさん」の愛称で沖縄の人々に保革を超えて敬愛される亀次郎の後継者が古堅さんです。

戦後、弁護士として、また沖縄人民党書記長として亀次郎とともに活動した古堅さん。
沖縄の本土復帰後は県会議員として衆院議員の亀次郎を支え、1990年の衆院選では亀次郎を引き継いで初当選し、以後3期を務めました。

 沖縄の本土復帰運動は、米軍の占領から日本の平和憲法のもとに「復帰」するということを主眼としていました。

しかし、復帰後にも多くの核兵器と米軍基地が残され、半占領・半植民地の状態が続きました。それだけに古堅さんは平和憲法を守ることに執着し、そのもとで2度と戦争を起こさせない、という活動に全精力を傾けました。

今でも修学旅行の若い学生たちに自らの沖縄戦体験を語り、新基地建設が強行される辺野古にも毎週のように元気な姿を見せて座り込みに参加しています。

 

〇師範学校から戦場へ

 今回のDVDでは、自らの幼少期についても語った古堅さん。

父親を早くに亡くし、頼りにしていた長兄も中国戦線で戦死。
将来への希望が断たれたかに思いましたが、授業料も生活費も官費で賄われた教員養成のための師範学校に入学することができて、1944年4月に沖縄本島北端の国頭村安田(アダ)から那覇の首里へと希望に燃えてやってきました。

しかし、まともな授業がおこなわれたのは1学期と、2学期の最初の1週だけ。以後は日本軍の陣地構築に動員されました。

 44年10月10日の米軍による大空襲の後、いったん郷里に戻された古堅さん。
翌45年3月の帰校命令で那覇に戻るときには、国頭から那覇までのバス便はすでに運行されていませんでした。
5日間かけて那覇まで歩きとおした古堅さん。南国沖縄とはいえ3月の夜は寒く、泊る所もなくて民家の軒先で膝を抱えて夜を過ごしました。

背負ったリュックには、母が持たせてくれた干し魚などの食料が入っていましたが、「学友への土産に」と、それには一切手を付けなかったといいます。
「じゃあ、5日間何を食べていたのですか?」と聞くと、「さあ、覚えていないんだよ」と屈託なく笑います。

 せっかく戻った学校生活も、翌日から始まった米軍による継続的な空襲と艦砲射撃で、寮から壕(留魂壕)への避難を余儀なくされました。

同年3月31日には沖縄守備軍(第32軍)司令部の軍命で、当時の法律も無視して師範学校の全教師・生徒が「鉄血勤皇隊」に召集されました。

古堅さんは最下級生で14歳でした。

県下の他の中学校、農林学校、水産学校なども根こそぎ召集され、地獄の戦場で多くの少年兵、そして教員が命を落としました。




今回のDVDは、プロの映像作家とカメラマンにお願いして作製しました。


編集後の映像を見た古堅さんは「大変よくまとめられています。すばらしい出来です。今後、大いに役立つものになったのではないでしょうか」とおっしゃってくださいました。

是非、多くのみなさんに古堅さんの「平和へのエール」をご覧いただきたいと思います。

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