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キューバ旅行記 2008・2・12~2・22

文:朝倉貞子さま 写真:たびせん・つなぐ

2008年2月のキューバツアーに参加された朝倉貞子さまの旅行記です。ご本人からの許可をいただき掲載させていただきました。
ご自宅でも自給自足の菜園を長年続けられている、朝倉さまならではの、素晴らしい体験記です。
音楽、有機農業、福祉、教育。笑顔のキューバが溢れてきます。




【日本からキューバへの道のり】
現在の所、キューバに入る直行便は無い。カナダを経由するのが一般的なようだ。夕刻成田を出発した飛行機は、約9時間でバンクーバーに着いた。ここで国内便に乗り換え、トロントまで更に4時間15分の飛行。トロントに着いたのは夜8時を過ぎていた。
一面真っ白な雪、トロントにしても珍しい大雪との事だった。ロマンチックなカナダの雪景色を見ながら空港エリアのホテルにチェックイン、翌日キューバに飛ぶ。
翌朝9時、トロントを発つ予定だった飛行機は、大雪で滑走路の整備に時間がかかり、これまた遅れる。約3時間半の飛行で夕刻ハバナに到着する。まさに二日がかりのキューバ入りだ。

【なぜキューバなの?】
1991年のソビエト崩壊とアメリカの経済封鎖から経済危機に陥ったキューバは、食料もなく人々の暮らしは凄惨を極めた。そんな中で政府は食糧自給に力を入れた。
大型トラクターを使って耕し、農薬を空中散布するというこれまでのやり方を変えた。ソビエト頼みの石油が入らなくなって機械を動かすすべが無くなり、そうせざるを得なかったというのが正直な所だ。ここからのキューバ農業は、地球と身体に優しい有機栽培を旗印に研究が重ねられた。
大規模国営農場を解体して小規模化し、土地の空いている所どこでも野菜を作った。そして、牛馬を飼いミミズで土作りする等、循環型農業に活路を見出した。そうして、化学肥料も農薬(植物由来の物は使用)も使わない有機農業が定着したのだ。
自家菜園で野菜をほぼ自給している私は、無農薬有機栽培を目指して来た。しかし、虫に食べられて簾状になる白菜や青菜を見て、いつも落胆し難しさを感じていた。キューバに行くならそこの所をしっかり見てみたいと考えた。
また、日本の農業は壊滅状態。私の故郷を始めとして里山はどんどん荒れていく。これは一地域だけでの問題では無い。豊かな山河、そして農村が守っているものは、計り知れないのだ。
農業では食べて行けないから若者は跡を継がない。狭い農地でも収量を上げて来た、誇るべき日本の素晴らしい農業技術も途絶えつつある。
そして今、日本人の胃袋を満たす為に世界中から食料を買いあさっている。「毒入り餃子問題」もこんな中で起きてしまった。
既に日本の食糧自給率は4割を切っている。これで良いはずは無い!農業つぶしの日本の農政、私が怒ってどうなるものでも無いが、「里山を守りたい、美しい山河を次代へ受け継ぎたい」という想いは、強いものがある。
日本の農業の未来を思う時、閉塞感で一杯になってしまう私。どうやら農家が元気らしいキューバという国に行ってみたいと思ったのだ。
また、浅学な私にはちょっと退屈な小説ではあるが、カリブ海で獲物と格闘する老人の姿が延々と描かれているヘミングウェイの「老人と海」。地元の漁師と深い交流があって生まれた作品だ。
キューバに恋し、キューバを愛し続けた小説家ヘミングウェイ。母国アメリカを捨てる程ヘミングウェイが惹かれたキューバという国、ちょっと興味がそそられるではありませんか!
それらの関心を満たす為に一味変わった旅、キューバの人々と交流する旅をお仲間と共に計画した。

【キューバ入り】
空港で出迎えてくれたのは、現地ガイドの「ホルへ・ルイス」さん。ポルトガル・中国・アフリカの混血という「キューバ人」という感じの大きな方だ。
空港から市街地までの道路は、5・60年代のアメ車やロシア車が我が物顔で走っている。「車で出かける場合、出発時刻は分かるが帰宅時刻は不明」と、ルイスさんは言った。つまり途中で故障して、修理に3時間と言う事がざらにあるらしい。この国の人はみんな自分で修理するとか。自慢げに窓から手を振る運転者、格好良く走るこの年代物の車こそがキューバを象徴しているのかもしれない。
また、道路端ではヒッチハイクの人々がたむろしている。それを整理して乗せてくれる係員までいるのだから驚く。バス等交通手段の不足がこの光景を生んでいるわけだが、ヒッチハイクが出来る安全なお国柄なのだと言う事に、まず感心してしまう。
これまたポンコツバスには溢れんばかりの人が乗っている。更に驚くのはトラックが改造されたバスも走っている事だ。まるで牛馬が運ばれるようなトラックに、牛ならぬ人が満載だ。
車窓の赤茶けた大地には、バナナ・タピオカ、そしてレタス等の葉野菜が栽培されている。牛がのんびり草を食む姿も。
道路沿いには、すっくと立つ大王椰子や、おなかが出ているユーモラスな妊娠椰子の並木がある。う~ん南国の風景、とうとう私はキューバに来てしまったのだ。

【ヘミングウェイが愛したキューバ】
ヘミングウェイ(1899~1961)は、キューバをこよなく愛した。名作の数々は、キューバで生まれたと言っても過言ではない。アメリカ政府の圧力を受けながらも、アメリカで自らの命を絶つ前年までキューバで過ごしたと言う。なので、キューバにはヘミングウェイ縁の地がたくさんある。

※ レストラン「ラ・ボデギィータ・デル・メディオ」
ヘミングウェイが通ったハバナのレストラン。キューバに到着した日の遅いランチは、ここで摂る。郷土料理のお店だ。
壁には、来店した有名人のセピア色の写真が所狭しと掲げられ、壁はまた、来店した人の落書きで埋まる。狭い店内はそれだけで圧倒される。ヘミングウェイの写真とサインは勿論、座った椅子さえも宙吊りに展示してあった。
彼が愛したラム酒ベースのカクテル「モヒート」はミントの葉入り、緑のグラディーションが美しい飲み物だった。
着席するとすぐ音楽家たちが側に来て「キサスキサスキサス」等、馴染みの曲を次々演奏してくれた。ボーカルはなかなか素敵な声の持ち主で、キューバ初日の気持ちを盛り上げてくれた。

※ ホテル「アンボス・ムンドス」
旧市街にあるコロニアルなホテル、ヘミングウェイが常宿としていたホテルだ。ここで「誰がために鐘は鳴る」を執筆したと言われている。エレベーターで6階に昇ると市街が一望出来た。

※ 白亜の館「フィンカ・ビビア」
私たちの乗った観光バスは、市街地を走り抜け「サンフランシスコ・デ・バウラ村」へ。小高い丘の上にヘミングウェイの暮らした家はあった。 ここは現在、ヘミングウェイ博物館となり一般公開されている。何と素晴らしい!周辺が一望できる眺望の良い場所だ。鬱蒼と茂る南国の木々、風が爽やかに吹き抜ける白亜の館。ここでアメリカ人の夫人や愛犬と過ごしたのだそうだ。いたるところに剥製が飾られ、彼が狩猟好きだった事が窺える。
敷地内には彼が釣りで使ったという船(ビラール号)が展示されていた。釣りが大好きだったヘミングウェイにとって、きっとカリブ海は最高の釣り場だったのだろう。青い海と輝く太陽のカリブ海、愛犬や婦人を伴いながら海に繰り出していたに違いない。ラム酒を傾けながら船を操縦するヘミングウェイの顔が目に浮かぶようだった。

※ コヒマル
ハバナから程近い漁村コヒマル。ここは「老人と海」の舞台だ。「老人」のモデルであった船長「グレゴリオ・フェンテス氏」は、2002年104歳で死去するまでここで暮らして居たと言う。
岬には小さな要塞がある。そしてすぐ側の広場には、村民によって建てられたと言う、ヘミングウェイの胸像があった。
コヒマルにも、ヘミングウェイ行きつけのレストランがある。「ラ・テラサ」は海に面してテーブルが並び、カリブ海を眺めながら食事ができる。
中に入ってすぐのカウンターで、真っ青な美しい色のカクテルを作ってくれた。これがヘミングウェイの愛した「ダイキリ」だと言う。ラム酒をベースに3種類のリキュール入りのカクテルだ。一口含んでみると甘い香りと共に眩暈するような強烈さにガーンと来る。ここでのランチはシーフードのリゾットだった。


ハバナでの風景(ハバナ遠望・ハバナの子供たち。2006年)
ハバナ遠望 ハバナの子供たち


【石畳と美しいコロニアル建築物が目を引くハバナ旧市街(世界遺産)】

※ カテドラル
ヘミングウェイの行きつけのレストラン「ラ・ボデギータ・デル・メディオ」を右に進むとすぐカレドラル広場。17世紀の石畳が今も残っている。
その一角に真っ白なドレスに葉巻をくわえた、ひときわ目立つお婆さんが座っている。映画などにも登場したフォワナさんと言う方らしい。カメラを向けると誇らしげにポーズをとる。その隣りには「写真をとったら金をくれ!」と言った感じのおばさんが立っていた。
肝心のカテドラルは300年以上の時を刻み、今尚人々の信仰を集めていると言う。堂々とした見応えのある建物だ。正面に建つ二つの塔の右側には大きな鐘(7t)が下がっている。

※ 市立博物館(旧総督官邸)
1791年~1898年までスペイン総督が住んでいた。のちに大統領官邸⇒市庁舎⇒市立博物館と、変遷を重ねた。まさにキューバの歴史そのものだ。入口には大砲と鐘がドンと鎮座していた。

※ アルマス広場
中央に独立戦争の父カルロス・マヌエル・デ・セスペデスの像が建つ。ハバナの町が建設された時、アフリカ系の人々は、東西南北にあるセイバの木の下でミサを行なったと言う。この木がアフリカのバオバブの木に似ているらしい。この木の下で、故郷を思い一心にお祈りをするアフリカ系の人々を想像した。

【歴史を物語るハバナの要塞(世界遺産)】

※ ブンタ要塞
ハバナ港に通じる運河を守る為作られた一番古い要塞。運河を挟んでモロ要塞と向き合っている。

※ モロ要塞
かつてモロ要塞とブンタ要塞には堅牢な鎖が渡され、運河を行き来する船の検問をしていたらしい。
1762年モロ要塞はイギリスの襲撃を受け、事実上ハバナはイギリス領となる。スペイン政府は、フロリダと引き換えにハバナを取り戻す。後にこの要塞は監獄として使用され、今は博物館になっている。灯台の役目も果たしているそうだ。
ここからの眺望は最高!海とハバナ市内が一望できる。

※ カバーニャ要塞
イギリスのモロ要塞襲撃に懲りた政府は、規模の大きな要塞を再び作った。これがカバーニャ要塞。今はゲバラ博物館と武器博物館がある。
ここも大変眺めの良い要塞だ。私たちが行った日は、近くの広場で大きな古本市がたっていた。国内の学生をはじめ、南米各地から本を求めて人々が集まって来ると言う。食べ物を商う屋台等も出て、お祭りのような賑わいだ。
このイベントの為、ゲバラ博物館は入場料が要るようだったが、ルイスさんが「キューバ好きの日本人が中を見たいそうだ」と言ってくれたようで、係員はフリーで通してくれた。質素ながらすっきりしたゲバラの執務室や、ボリビアで殺されるまでのゲバラの軌跡が分かるように展示されたものを見る事ができた。

【都市農業】
キューバ農業を語る時、初めに都市農業とは何か書かなければならない。
ソビエト崩壊とアメリカの経済制裁で最も深刻な打撃を受けたのは、キューバの中でも都市に住む人々だ。体重が総じて減ったというから、どれだけ大変だったか分かる。
流通の為の輸送手段が無くても食べる事が出来るのは、当然ながら地産地消の仕組み。そこで威力を発揮したのが「オルガノポルコ」だ。 「オルガノポルコ」とは、コンクリートや石・ブロック・板・金属などで囲いを作ってその中に地力のある土を入れる。養分が抜け出さないので、空いた土地があれば駐車場でも庭でもどんな所でも野菜作りが出来るという訳だ。大型のプランターと考えてはどうだろうか。
「オルガノポルコ」では、需要の多いフダンソウ・バジル・ホウレンソウ・中国野菜・ニンニク等が作られている。キューバは「オルガノポルコ」の開発によって、都市での農業を実現したのだ。
因みに都市農業とは、各州の中心から5km以内、市の中心から3km以内の農業を言うのだそうだ。

【農場見学】
ハバナ観光二日目に、私達はハバナ郊外の共同農場を目指した。
所長のメナードさんの一声は「サン・バレンタイン、おめでとう!」だった。う~ん、そう言えばこの日は2月14日だ。日本では女性が男性にチョコレートを贈る商戦に乗せられている感じのバレンタインデーだが、こちらでは「愛の日」とか「恋の日」とか言う感じで、女性が大切にされる日のようだった。いたる所で女性にお花を買う男性の姿を目撃した。
メナードさんの話によると、11年前5人でこの農場を始めたそうだ。徐々に広げて、現在は160人(女性は36人)が働き、10.8hの広さになったと言う。15人の大卒と、25人の専門学校卒がいて、大学や研究センターと協力している。そして、ここにはオーガニック研究センターがあると言う。
ここでは常時60から70種類の野菜と、花や果物を育てている。すべてオーガニック栽培だ。肥料として或いは地力をつける為、サトウキビから酢を作ったり、漢方薬になる植物を育てたりもしている。
収穫物は近所の人々に販売しているそうで、販売所を覗いて見ると、午前中だというのにあら方の野菜は売れていた。新鮮なので人気があるのだろう。これぞ地産地消、輸送費がかからない地球に優しいやり方だ。
ハバナではこのような農場が大小併せて150も有り、36万人が働いているそうだ。ハバナの人口200万人を考えると、かなりの割合だ。
全国的に見れば、キューバでは80%がオーガニック栽培されている。20%は普通栽培だそうで、それはサトウキビだけだとメナードさんは言い切った。常に研究が重ねられている事を考えれば、サトウキビのオーガニック栽培も近い内に実現するだろうと思われた。
野菜は冬が一番多く収穫できる。亜熱帯モンスーン地帯であるキューバの夏は暑くて、寒冷紗(日除け)を利用しているそうだ。
お米はこの農場では作っていなかったが、キューバ人はよく食べるそうだ。確かにキューバ滞在中、小豆ご飯のようなものがよく出て来た。それが実に美味しい!因みにお米は四期作できるそうだ。やはり南国だ!
有機農業の基本は土作り!病気や虫に負けない豊かな土、地力のある土作りがキューバ農業の最重要課題だ。それらを含む取り組みの一部を紹介しよう。

<ミミズは労働者>
メナードさんの農場には、幅1m長さ4・5m位のコンクリートの桶がいくつか有った。そこにサトウキビカス等の有機物や牛糞などを10cm程入れた所に1㎡2000~2500のミミズを放つ。数日後にまた有機物を足して、最終的に60cm位に積み上げる。その間ミミズが働き、3ヶ月程で養分たっぷりの素晴らしい土が出来上がると言う訳だ。
ミミズは世界に何種類もいるそうだが、その中で最も適している2種類を使っているそうだ。その内の一つは和名シマミミズだと言う。
メナードさんがその桶の土をすくうと、手にはミミズがいっぱい!この桶でミミズが充分働いてくれた後、網状の物をのせて餌でおびき出したミミズを、また別の桶に移すのだそうだ。
それらの土を使った畑では、パクチョイ・人参・レタス・パセリ・ブロッコリー等が元気に育っている。野菜ほど多くは無かったが、マンゴー・ノニ・無花果・モモ・アボカド・孫の木(初めてみるキューイに似た実)等の果物も有った。
野菜畑は作業する場所を確保しながらも、整然と長方形に並んでいる。注意深く見てみると、これも仕切りのある巨大な「オルガノポルコ」であった。

<農業を後押しする研究所>
どんなに豊かな土があっても病害虫や雑草との戦いは避けられない。バイオの研究が盛んで、カリブ海の島々に自生するニームの木から農薬を作り出している。種子に含まれる成分が虫の成長ホルモンと似ていることを突き止め、その揮発成分を利用して虫の食欲を失わせるのだと言う。多種の害虫に効き目があるそうだ。人体に無害でシャンプーや石鹸にも利用できる。この他にも、天敵やバクテリアを利用した農業の研究も進められているようだ。

<先人の知恵から学ぶ>
化学肥料に殺菌剤や農薬を多用した近代農業では忘れられていた先人の知恵、例えば「混作」人参とキャベツを隣り合わせに植える事によって、人参の強い匂いでコナガの幼虫によるキャベツの被害を減らす等。
そして「輪作」同じ物を同じ場所に植えず他のものを植える事で、連作障害から守り収量を増やす。
また、メナードさんの所でもやっていたが、野菜の側でヒマワリを育て、ヒマワリに虫を集めて野菜を虫害から守る。線虫予防にマリゴールドを植える等々。堆肥液を薄めて噴霧し、その匂いで害虫を追い払う事もやっていた。
メナードさんの農場では、若い男女が椅子に座ってピーマンの種蒔き作業をしていた。種蒔き床(ピートパンのような物)にピンセットを使って一粒ずつ蒔いている。根気の要る作業なのにとても楽しそうだ。
私もやってみたいなあ。ここで一ヶ月位お手伝いしたら、我菜園でも生かせるかも・・・と考えた私は、メナードさんに聞いてみた。「ウエルカム!ホームスティしながら、ぜひいらっしゃい。」と、農場のパンフレットまでくれたのだ。
畑をやっているお仲間三人と「きっと実現しましょう」と、誓い合ったのに・・・後に民家訪問をして見てしまったトイレ。ホームスティはとても我慢できそうに無いと思ってしまった。意欲がトイレ事情で萎んでしまうなんて、私も金満日本の豚になってしまっていると、少々落ち込んでしまった。メナードさんごめんなさい。

キューバ農家訪問と交流の様子(2006年)
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【農家との交流】

私たちはハバナ郊外の「エレ・ハポネス」農場へ。スペイン語は分からないが「日本人の農場」と言う事なのだろう。ここは新潟出身の大江三朗氏が築いた土地だ。既に大江氏は故人となり、二世のオルガさん夫妻が引き継いでいる。
キューバでは、日本人移民は大変少ないと言う。私たちが町を歩いていると「チーノ(中国人?)」と声を掛けられる程だから、中国人は多いのだろう。そんな訳で日本語教育を受ける機会が無かったオルガさんは、日本語が話せない。しかし、顔は日本人の血を引いていると感じた。ご主人は白人だったのでスペイン系なのであろう。
オルガさんは金属化学の研究者。夫のセグンド・ゴンザレスさんは細菌学の研究者。二人は食料危機の時に研究職を辞め、父親の土地で農業を始めたと言う。
私達が農場に入ると、すでに野外に食卓が用意されていた。素朴だが素晴らしい食卓だ!
小さなテーブルには、飲み物が並んでいる。すべてここで絞られた生ジュースなのだから感激だ!ガァバ・スイカ・オレンジの生ジュースが飲み放題だ。
大きなテーブルには、お豆料理・ソーセージ・お肉料理・農場で採れたとびきり新鮮な野菜サラダが並ぶ。そして何と天婦羅が出て来たのだ。きっと故郷をしのぶ料理として受け継がれて来たのであろう。
接待してくれたのは、オルガさんとお兄さん夫婦。お兄さんはコックさんだそうだ。こちらは小柄なオルガさんと違って、お腹が出た背の高い「キューバ人」という感じの方で、顔も似ていない。奥様もお尻の大きな「キューバ人」だ。
食事が終わると「踊りませんか?」オーディオセットが運び込まれ、キューバ音楽がガンガンかかる。
お兄さん夫婦のリードで、おずおずと私達も腰を振る。しかし、あのセクシーな腰の振り方は難しい・・・真似してできるものではない。あちらの方から見たら、私たち熟女グループの腰振りダンズは滑稽であったろうに、一生懸命教えてくれた。
ダンスの後は、お兄さん夫婦の子ども、つまり三世の青年が農場を案内してくれた。メナードさんの農場と同じで、整然と並ぶ「オルガノポルコ」群があって、そこでは、セロリ・フェンネル・ディル・フダンソウ・人参等、たくさんの野菜たちが元気に育っていた。何とニラもあったのだ。勿論「ミミズの労働者」も大活躍していた。
メナードさんの農場では見なかったビニールハウスもあって、その中ではキューリが見事に育っている。完全無農薬有機栽培のこれらの野菜たちは、ここでも併設されている直売場で売られていた。
案内してくれた青年は18歳、高校卒業後一年間の兵役についていると言う。時間があるので従弟と共にこの農場の手伝いをしているそうだ。「農場で働く時間は、自分にとってホッとする素晴らしい時だ!」と、胸を張った。う~ん、日本の若者に聞かせてあげたい。

【老人の笑顔弾けるキューバ】
「SER HUMANO」(人として)、この言葉が国の隅々まで行き渡っているというキューバ、カストロさんの革命の理念はここに有ったようだ。 教育も医療も無料、老人は大切にされていると聞く。日本では「後期高齢者医療制度」なるものが四月実施となり、高齢者の医療費負担は上がるばかりだ。金の無い老人は死ぬしかないとマスコミでも取上げられている。こんな折だもの、元気なキューバのご老人にも会ってみたい。
私たちが訪れたのは、ハバナ市内のサンタフェ地区。日本で言う「ディケアセンター」のような所。入ってすぐのホールには、車椅子の人も含めて大勢のご老人が集まっていて圧倒されてしまった。2・30人と聞いていたが、90人位集まっていた。
女性の所長さんがこの施設の説明をしてくれた。この施設はサンタフェ地区全ての老人をカバーしていると言う。全てというところが凄い!
文化的なサークルや体操サークル等が開催され、興味関心がある所にどなたも参加できると言う。このセンター自体も9時から18時までいつでも利用できるようだ。そして住んでいるこの地区の環境を守る為、美化活動にも力を入れていると言った。
キューバはみんな歌が好きだ。歌サークルのご老人なのだろうか!次々出て来て歌を披露してくれる。ミニコンサートだ。それがみんなとっても上手なのだから驚いてしまう。ボレロやサンバ、キューバ伝統の歌を情感たっぷりに歌い上げる。椅子に座っていた人たちは、私たちの手を引いて周りで躍り出す。陽気な交流は続いた。
「夫婦喧嘩の歌」では、一組の男女がまるで喧嘩しているように身振り手振りを交えて歌い、会場は爆笑に包まれた。私達もお礼に「瀬戸の花嫁」を歌う。勿論大きな拍手をしてもらった。
私は前夜、お仲間と40個の折り鶴を折って持って行った。しかし、90名居たのだから足りない。手分けして追加分を折ったり、折り方を教えたりしている内に、時間は過ぎてしまった。
お別れは大合唱!「ビバ、キューバ(?)」車椅子の人も体を揺すりながら歌っている。何故かジーンとしてきた私。ルイスさんの解説によると、この歌の歌詞は「人はこの国を変な国と言うけれど、こんな綺麗な月を見た事が有るか、そんな国が有るならみんなで探しに行ってみよう」と言う内容だとか。「キューバ万歳!」と言った感じの歌なのだろう。
私たちが帰ろうとしたら、みんな外に出て見えなくなるまで見送ってくれた。「さよなら何時までも元気でね!」心の中で呟いた。
交流時、所長さんにお仲間が質問した。「みんな笑顔一杯、明るくて元気。その秘訣は?」
所長さん曰く「元気なお年よりは年金を頂きながら、縫い物をしたり農場を手伝ったりして小遣いを稼ぐ。そして病気になったら入院も手術もみんなただ、健康は国が守ってくれる。みんな幸せで心配事が無いから、夜は安心して休む事ができるのです。」「また、どんなに年をとっても私たちは教育を受けられる。ここに元高校の先生がいるけれど、そういう方々のご尽力で、生涯教育が受けられるのです。」これが幸せでなくて何でしょう!と言った感じだった。それは自信に満ちた誇らしい顔だった。

年配者との交流(2006年)
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【シエラ・マエストラ山脈に囲まれた港町サンチャゴ・デ・クパ】
ハバナから1時間半のフライトでキューバ第二の都市「サンチャゴ・デ・クパ」に着く。
空港から街に向かう景色は既にハバナと違っていた。まず起伏が多い。街には人がいっぱい繰り出している。ちょっと雑々した庶民的な空気が漂っていた。
旧市街は、メインストリート以外は道幅が狭く、私たちのバスが通り抜けるのは至難の業だ。しかし、起伏に富んだこの町はなかなか面白い!

<革命の象徴モンカダ兵営跡>
キューバ革命の火蓋が切られた歴史的な場所。入口近くの壁には当時の銃弾の跡が今も残っている。
1953年7月26日、この兵営では、カーニバルのパーティが開かれていた。その日を選んでカストロ率いる革命軍は攻撃をした訳だが、交通事故を起こして計画がばれてしまい、多くの犠牲者を出して敗退した。ここには、襲撃の経路やメンバーの写真等が展示されていた。
この博物館で学芸員というべき人が私たちに説明している時、後ろから来たドイツ人グループに説明している方が「声が大き過ぎる、速く進め!」と言ったらしい。当然、学芸員は「丁寧に説明して何が悪い!」と言ったふうに反撃したようだ。そうしたらドイツ人は「日本人は写真をといっていればいいのよ。」と言ったとか・・・「忙しく観光し、写真をとりまくる日本人」のイメージが世界中に広まっているのだろうか。

<モロ要塞(世界遺産)>
ここも美しい要塞だった。市街から離れた場所にあって海岸に沿って作られている。急な階段を上って要塞の上に立つと、一面青いカリブ海。静かな大海原が目の前に広がっている。フランスやイギリスの侵略と海賊の襲撃を度々受けて、この街を守る為に作られたらしい。
イタリア軍の技師によって設計されたこの要塞は、岬先端、しかも高所での工事だった為に、完成まで60年の歳月がかかったと言う。ヨーロッパの古城を連想させるこの美しい要塞は、別名「サン・ペドロ・デラ・ロカ城」とも呼ばれ、1997年ユネスコ世界遺産に登録されている。

<街歩き>
旧市街歩きは、その中心にある「セスベデス広場」から。
まずカーニバル博物館へ。7月下旬、一週間に渡って開催されるカーニバルにまつわる展示がある博物館だ。中庭ではキューバンダンスを楽しむ。アフリカ系の人々の激しい踊りと歌だ。
暫しの自由時間はあちこち覗きながら歩く。道路脇では、パンやアイスクリームが売られている。なかなか賑やかだ。

※ スーパーマーケット
品揃えは少ない。日本や欧米のそれを想像すると、まるで小売店のようだ。

※ 修理天国キューバ
最初にバザールを覗いた。狭い場所に「ネジ」や「タイヤ」等、修理用の部品が山積みだ。古タイヤで作ったようなサンダルも売られていた。
何の店だろう?待合所で数人の客が椅子に腰掛けて順番を待っている。美容院?好奇心旺盛なお相方が、ずかずか中に入って行く。作業している人が、もっと中に入っても良いと手招きする。そこには数台のミシンが・・・つまり洋服修理屋だった。
やはりもう一軒、何屋か分からない店に通りかかる。「何だろう?」と覗いていると、気持ちが通じたのだろう。やはり手招きして見せてくれた。そこでは炊飯器を修理していた。つまり家電修理屋と言った感じ。
物が無いと言う事なのだろうが、車だけではなく、何もかも丁寧に直して使うキューバだ。

※ 物乞いさん?
ハバナでは全く見なかった物乞いさんを見た。
まずバスが広場に着いた時、松葉杖のおじいさんが手を出して物乞いしていた。私は見なかったのだけれど、お仲間によるとこのお年よりをたしなめているおばさんがいたと言う。「あなたは老人ホームで不自由無く暮らしている。それなのにこんな事をして!言いつけて国の援助がもらえないようにするわよ!」と、言っていたそうだ。面白い言動!他でも「石鹸を持っていない?」「ボールペンをくれ」と言った風な物乞いさんを幾人か見た。
発展途上国では良く見るこのような光景も、キューバでは珍しかった。

※ 国民的スポーツ野球
キューバは野球が盛んだ。旅行中、ハバナ対サンチャゴ・デ・クパの試合があった様で、町は盛り上がっていた。
バスの運転手さんやルイスさんが、「民家で食事をしましょう」と言う事で、その場で電話をしてくれてランチの交渉。交渉成立、そこは民宿だそうだ。
狭い食堂に十人チョットが勢揃い。前菜「揚げバナナ」のバナナ叩きをお手伝いしたり、魚料理の様子を見たりで大変面白かった。
そこのお兄さんはサンチャゴ・デ・クパの野球チームのメンバーだそうだ。ハバナに勝ったので、サンチャゴ・デ・クパのチームはキューバ一とか。オリンピックに出るかもしれないという事なので、みんなユニホーム姿のお兄さんと張り切って写真を撮った。

サンチャゴ・デ・クーバ(サンチャゴ・デ・クパ):街並みとクラシックカー、サンチャゴの音楽の家での一こま(2006年)
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<サンチャゴ・デ・クパで会った外国人>
サンチャゴ・デ・クパに到着した日のランチはボートで島に渡って!
桟橋でボートを待つ間5・6人の男性と一緒だった。話をしてみると「ベネズエラから来た」と言う。しかし観光客には見えない。その方々がボートで発った後、ルイスさんが言った。「二人はキューバ人医師、その他はベネズエラの麻薬患者で、治療とリハビリをしている人たちだ。政府は他国の麻薬患者を受け入れている。」と、言った。
そういう人たちも週末は、私たちと同じレストランで食事を楽しんでいる。キューバと言う国を考えさせられる出会いだった。

【田舎の人々と交流】
サンチャゴ・デ・クパからバスに揺られて一時間余、のどかな田舎道を進む。この辺に来ると椰子の葉で葺いた屋根が目立つ。民家の垣根はなんとサボテンだ。
山の斜面では、真っ白い牛が放牧されている。牛についた虫を食べているのか、その周りでは白鷺が遊ぶ。ロバでミルクを運ぶ農民や山羊の群れも。そして木陰では何時来るか分からないバスをのんびり待つ人がいた。民家はまばらなのに、テクテク歩いている人が結構いる。水道は無いのかな?水を運ぶ女性も。
雄大な丘陵地を進む。眼下には低木の中、椰子の木が天に向かって伸びている。美しい光景だ。畑は殆どサトウキビ畑。ここまで来ると、サトウキビはキューバの代表的な農産物と言う事が分かる。

<椰子の実採りの実演>
バスが突然止まった。そこは一軒の農家の前だ。庭に出ている親子に、運転手さんとルイスさんが何やら頼んでいる。椰子の実採りの実演を依頼しているようだ。快諾してくれた様で、息子はするすると20mもあるかと思われる椰子の木に登って行った。
奥様は、息子が採った椰子の実を削り、ココナツジュースを振る舞ってくれた。勿論ココナツの白い部分もね。キューバの空と空気のせいかしら?ココナツジュースはどこよりも美味しかった。爽やかなスイカジュースのような味がした。
こんな飛び込みの客なのに、何と家の中も見せてくれた。8畳位の居間兼ダイニングに10人分の椅子があった。ベットルームが二つに台所とテラスという間取りだ。狭いながらもすっきりと片付いている。感心、感心!人の良い親子に感謝して農家を後にした。

<豚の丸焼きパーティ>
交流する農村までの道は、ゲリラ戦の舞台となった所らしい。農民たちもその戦いに参加したと言う事だ。
バスは清流流れるキャンプ場で止まった。ここからは歩くしかない。周りはちょっとしたジャングルと言った感じだ。石がゴツゴツした道を馬車やロバに乗って、或いは徒歩で進む。10分くらいでウーリアさんの牧場に到着。ここは「SEGUNDO FRENTE村」。迎えてくれたウーリアさんは、60歳で6人家族だと言う。畑では、野菜や芋を栽培している。ココナツ・バナナ・マンゴー・オレンジ・マングリーナ(ミカン)等のフルーツも。牧場では馬とロバを育てているそうだ。
ウーリアさんは農民組合に属している。それは公務員と言うが、国の農民と言う感じかな?作る物はみんなで相談して決めるそうだ。作物の60%は政府に納め、残りは個人で売る事ができる。ハリケーン襲来等で不作の折は、政府が被害をカバーしてくれるそうだ。
椰子の木に登ってくれた農家よりも、家はもっと粗末であったが、ここも綺麗に片付けられていた。一種類位しかない調理器具を見たお仲間は、「日本は物が有り過ぎて片付かないのかもしれない。これで充分なのよね」と、言った。本当にそうかもしれない。
まず、ウエルカムドリンク。リヤカーのテーブルには、ガァバ・マンゴー・オレンジ等々、採りたて絞りたての生ジュースが一杯!目移りしてしまいそう。勿論味は、サブロッソ(最高)!
牧場の方からは絶え間なく賑やかな音楽が聞こえてくる。バンドの生演奏だ!いよいよパーティ。土地の人がお祝いの時集まって開くパーティを、私達の為に用意してくれた。
穴を掘って薪で焼いた豚の丸焼き。テーブルにドンと置かれて、そのお肉を切り分けてくれる。バナナの葉で作った器には小豆ご飯が一杯。これは日本の小豆ご飯とそっくりだ。ニンニクベースのソースをかけて食べる。美味しくて何回もお代わりをした。サブロッソ!(最高)キューバ滞在中、このご飯は度々出て来たが、外で食べたせいか一番美味しかった。それに野菜サラダ、レタスやキューリ・トマト入りだ。
食べながら9人のバンドと共に踊りまくる。この9人は愉快な人たちで、太ったお腹を丸出しにして臍踊り(?)をしてくれたり、楽器に触らせてくれたり、サービス精神旺盛だ。踊らにゃ損々とばかりに、私たちも我を忘れて共に踊った。
隅の方ではウーリアさんの奥様が、木を燃やして鍋でコーヒー豆を炒っている。素朴な焙煎方法だ。私もお手伝いさせてもらう。こんな風にやっても美味しいコーヒーは飲めるのだ。仕上げはそのエスプレッソコーヒーで、これもまたサブロッソ!(最高)
話変わって、キューバコーヒーは当然有機栽培だ。ルイスさんの話によると、主にフランスと日本に輸出されていると言う。因みに日本で展開されている「ドトール」のエスプレッソは、キューバコーヒーだそうだ。
愉快な仲間たちと、食べて踊った数時間。余程楽しかったのだろう。その夜私のお相方は、私の歌声で目が覚めたと言う。夢にまで出て来た交流会、私も久し振りに興奮した。

いつでもどこでも、溢れるキューバサウンド。(トリニダー・2003年、レッスン場で鑑賞・2006年)
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【キューバ版巡礼の道】
サンチャゴ・デ・クパから程近い「エル・コブレ村」へ向かう。ここは世界第五の銅山の村だそうだ。その小高い丘の上に「老人と海」でも触れられている<バジリカ・コブレ(コブレ教会)>は有った。
1806年、遭難した漁師が浮いていた木製のマリアを発見したと言う。それに祈る事によって危機を脱出した事から、その聖母マリアはコブレ教会に祭られた。それからというもの、ここは聖地となった。そして、全国から巡礼に訪れるようになったそうだ。
内部はなかなか面白い。この聖母マリアは動く仕組みで、カソリックの人々がお祈りをする時は、180度回転して礼拝堂を臨む位置になる。その他はまた元に戻る。つまりどんな宗教にも対応できると言う訳だ。
キューバではカソリックとアフリカ宗教が殆どだと言う。スペインはカソリックを強制したようだが、アフリカの人々は密かにその宗教を守って来た。今は自由だそうだが、若い人々は宗教には熱心ではないそうだ。
コブレ教会にはたくさんのお供物が供えてあった。ボール・メダル・卒業証書・写真等々。
例えば病気の時祈り、治ったら御礼に来る。オリンピック選手は遠征前にお祈りに来て、結果を報告に再びやって来ると言った具合だ。ヘミングウェイやカストロもやって来たと言う。
本当はアメリカ政府による虐待で有名になったグアンタナモ基地のある場所か、世界遺産のコーヒー園に行く予定だった。しかし、昨年11月のハリケーンで道路が壊れ通行不能。その結果訪れたコブレ教会だったが、なかなか良かった。

【キューバの男性は女性の奴隷?】
ガイドのルイスさんは、バツ一で、高校生の息子さんがいるとか。結婚してから、「家事をたくさんやらされて大変だった」と、言った。
確かにこちらの男性は、まめに働く。老人施設に行った時も、90人もいて殆どが女性なのに、お茶を運んでくれるのも、世話してくれるのも男性だった。
そして結婚は4回が普通と言う。嫌ならくよくよしないでやり直そうと考えるのか、我慢はしないようだ。
別れて幸せでも、子どもが居ると経済的には不幸だと言う。子ども一人が奥様と暮らす場合、元夫は一人につき給料の30%、二人では50%を天引きで元奥様に支払うと言う。そして子どもには、自由に会っているようだ。親の都合で振り回されないように子どもを守っているのだろう。
それにしても、結婚4回が「代表的キューバ人」とは凄いなあ。

【キューバの住宅事情】
都市での住宅事情はよくないようだ。結婚しても親と住む場合が多い。そういう意味では、家族の問題が離婚に結びつく事もあろう。
しかし会社の仲間でグループを作り、みんなで住宅を作るそうだ。材料は政府から調達し、給料の1%を7年位かけて支払う。それで名実共に自分のものになるそうだ。
特例がある。海外にボランティアとして出かけた医師は、帰国後無料で家が貰えるそうだ。何故ならキューバに居ないから彼らは家を作れないと言う事だ。

【キューバの医療】
バスで移動していると、「あそこはお医者さんの家」という説明をよく聞いた。実にお医者様が多い国だ。国民の日常の健康は家庭医によって管理されている。必要があれば大病院へ。
あなたは、キューバの乳児死亡率がアメリカより低いと言う事が信じられますか?一定人口当たりの医師数もアメリカや日本よりも多いのです。貧しい国なのに・・・だ。
革命後政府が医療にもっとも力を入れてきた事が分かる。それはキューバ国内に留まらず世界へも貢献しているのだ。ボート乗り場で会ったベネズエラの麻薬患者への支援等もその一つなのだろう。
キューバ出発前目にした新聞に、「視力回復100万人」と言う小さな記事が載っていた。「ボリバル代替構想」の一環として、2004年に始まり、すでに100万人の視力を回復させていると言うもの。ボリバルに加盟するキューバ・ニカラグア・ベネズエラ・ボリビア政府が協力して、白内障等で視力を失った人々を救う計画のようだ。2016年までに600万人に手術をする予定とか。ここでもキューバ人医師が大活躍しているようだ。
また、キューバの医科大学では、ラテンアメリカ諸国の医学生を無料で受け入れていると言う事だ。
医療水準も世界で突出していると言う。旅行中どこかで聞いた話だが、フロリダに亡命したキューバ人が病気になるとキューバに戻るそうだ。そして手厚い医療を受けている。病気になって戻るのでは医療費を圧迫して困るとその方は笑っていた。
世界中どこでも弱者の命を守る。「SER HUMANO」(人として)の精神なのだろうか!


キューバにある世界遺産の都市・トリニダーの人々(2003年)
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【ファイナルパーティ】
キューバで度々私たちと行動を共にしてくれた是永禮子さんと言う、一人の日本女性について語らなければならない。
彼女はキューバ人と結婚し、旅行会社を設立している。キューバ国内の手配は彼女の会社がやってくれた。禮子さんは仕事でキューバに来てこの国が大好きになり、ハバナ在住17年と言う。老人施設での交流時等々、みんなからとても慕われていて、この国にしっかり根を張って生きている事を感じさせる人だ。
その禮子さんが、自宅に招いてお別れパーティを開いてくれたのだ。たくさんのカツカレーやサラダ・ジュースにケーキを用意して待っていてくれた。
そこには日本語のできるキューバ人4名を招いていてくださり、「多くの方と交流したい」と言う、私たちの願いを最後の日まで叶えてくれた事になる。
4つのテーブルに分かれ、その中に一人ずつキューバ人が入った。そして、日本語でお話をしながら食事を楽しんだ。
日本語が良くできるクラウデイオさんは、ハバナ大学の学生で23歳だ。彼はキューバ大使として赴任した父親と共に来日し、9歳から14歳までを東京で過ごしたというから、日本語はとても上手だった。日本ではいじめられる事も無く楽しく暮らしたそうだ。
キューバ帰国の二年後、クラウデイオさんのお父さんはマレーシア大使として赴任したそうだが、16歳になっていた彼は付いて行かなかった。「何故?」と言う私に「お父さんは努力してその地位を得た。僕はもう子どもではなかったので、父の七光りに便乗する事はしない。例えば一人親家庭の子にでも、機会は均等に与えられるべきだから」う~ん、しっかりしているなあ・・・
ルイスさんが言っていた。「キューバは殺人が無い国。泥棒もいなかったが、今はハバナの旧市街等に時々泥棒が現れる。それは若者だ。」「働かないで油を売っている人も居る」この言葉がずっと気になっていた私は、クラウデイオさんに聞いてみた。「将来的にこの社会が壊れるとは思わないか?」と。
彼は「そうはならないと思いますよ」と、きっぱり言った。「みんな平等である事、福祉や医療の充実等、革命によって素晴らしい国になった。僕たちは歴史を学ぶ事によって大変だった時代を良く知っている。だから後戻りはしない。ただ頑張っている人への還元が少ない。努力が賃金に正当に還元されるよう、その点の改革をしていく必要が有る」とも。 何とも頼もしいではないか!こんな青年がいる限り、キューバの未来は明るいかもしれないと思った。
最後に禮子さんにも聞いてみた。「この国の社会主義の未来は?」以下はその言葉。
この国の人にとって、社会主義も自由主義も無い。「人間はどうあるべきか」「どう生きるべきか」考えた結果が、今のキューバ。この国には、「赤い貴族」はいません。国会議員は報酬無し!様々な職業(医師・音楽家・配管工等々)から選ばれた国民の代表なのです。それはさながら学級委員のようなものですね。そういう代表が話し合って国の方向が決められて行くのです。
この国は「痩せたソクラテス」と、私はよく例えます。貧しいけれど教育や医療はただだし、世界中争いや災害の有る所に、大勢の医師を派遣し助けています。インドネシアの津波やパキスタンの地震でも最後まで残って支援したのは、キューバ人医師たちでした。日本の阪神大地震の際にも神戸に医師団を派遣する為、キューバ政府は日本政府に打診しましたが断わられたそうです。アメリカを襲ったハリケーン(カトリーナ)の時にも医師団派遣を計画しましたが、アメリカ政府は拒否しました。
アメリカとキューバは目と鼻の先、アメリカと日本以上に密接な関係です。それだけに、「キューバの未来はアメリカ次第」とも言えます。
経済封鎖の影響はもの凄いものが有ります。ブッシュ大統領以前に流通していたUSドルは、銀行を閉鎖される事によって流通しなくなったばかりでなく、銀行に積んでいた膨大なキューバのお金が消えてしまいました。これは、チャベス政権になったベネズエラに対しても同じで、12憶ドルの石油を買っておきながらアメリカ政府は代金を払っていません。また、キューバの鉱物資源ニッケルの輸出先にも圧力をかけて買えないようにしています。
う~ん、知らなかった!知らない事、いや知らされていない事が多過ぎる。大国によるいじめが、ここキューバでこのような状況で行われている現実。
しかし、キューバの人たちは怒らないと言う。「そんな国もあるさ」と、言った感じだとか・・・南国の大らかさなのか!
私は禮子さんの話を聞きながら、老人施設での「ビバ、キューバ!(?)」の大合唱と、お年よりの笑顔を思い出していた。


笑顔溢れる学生たち(2006年)
笑顔あふれる青年たち


【終わりに】
帰って来ると、新聞では珍しく「キューバ」が取上げられていた。フィデル・カストロの退任を受けた後継についての話題だ。弟のラウル・カストロが選ばれた訳だが、その論調は「これでは何も変わらない」と、今のキューバがあたかも悪いと言っているようだ。
私もキューバに行くまでは、もっと窮屈な国と思っていた。行ってみて亡命者に港を開いたと言う話や、アメリカのCNNが自由に見られると言った事等を見聞きした。そして、何よりも明るいキューバ人に会って、想像とは違ったかなり自由な国と感じた。
制度的な欠点や歪みは、どんな国にもある。それを改革して行く力があるかどうかが問題なのだろう。
海外に行くといつも思う。行った国へ対する私自身の眼差しが、限りなく優しくなっていると。

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