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済州島の旅 お客様からのレポート

お客様からツアーレポートをいただきましたのでご紹介します

Ⅰ、 はじめに (木原信義記)
 2026年3月11日から3月15日の五日間、済州(チェジュ)島(とう)を旅した。
 主催は、東京母親大会連絡会である。これまで、「東京母親大会平和の旅」にはベトナム、ラオス、台湾、カンボジアに参加した。前回は、2020年2月、コロナ過の直前にカンボジアへ行った。国が海外旅行を規制する直前で空港はガラガラだったと記憶している。
今回の参加者は中学生、高校生を含め12名。その中で男性は私一人であった。旅行会社は(株)たびせん・つなぐ。社長の大西健一さんが添乗員として参加していた。大西さんはこれまでの経験から、チェジュ島のことをよく知っていて彼のおかげで楽しい旅となった。
現地案内人は韓国人の高ギョンヒさん。チェジュ島生まれで、彼女との出会いが、この旅の目的である私の父の戦場を知るうえで、貴重な証言を聞くことができた。参加者の中に、中学生、高校生の姉妹が参加していて、若い感性を身近に感じ、この旅を一層楽しくさせてくれた。

旅の行程(木原秀子記)

〇5日間の行程を行った順にまとめました。感想はあくまでも個人的なものです。

1日目(3月11日・水)

 【コース】成田空港発(14:50)―チェジュ島空港着(17:45)―夕食会場―ホテル   
1日目は、チェジュ島に行くだけののんびり旅。
皆さん早めに集合できたので余裕をもって手続きをすることが
できた。時差もなく、1日目は「行くだけ」というゆったり
感が何とも言えず良かった。直行便もよかった。

【あっという間に済州島へ】


乗ってすぐ3時過ぎに機内食が出た。おやつ程度かと思っていたら、普通のしっかりした食事でおいしかった。12時に空港で昼食を食べたばかりなのに食べてしまった。約3時間のフライトであっという間にチェジュ空港に到着。空港にはヤシの木があり南国風の印象。韓国のハワイと呼ばれていて新婚旅行のメッカだとか。気温は日本とあまり変わりなかった。出迎えてくれたのは現地ガイドの高ギョンヒさん。5日間お世話になる。ホテルはメゾングランドチェジュ。5つ星ホテルで4連泊。部屋もゆったりしていてほっとする空間だった。ある夕方、若い人が続々ロビーに集まってきた。観光バスで乗り付ける団体もいた。なんだろうと高さんに聞いたら、有名な人のトークショウがあるとか。広いホールやカジノも備えた大きいホテルだった。

【夕食は黒豚サムギョプサル・ヌルボム食堂】

1日目の夕食はチェジュ島産の黒豚。分厚い肉を炭火で焼いて食べた。韓国はどこの食堂でも、キムチやナムルなど何種類もの「おかず」が出ておかわりもできる。全部の肉を一度に焼いたので焦げてしまった。何回かに分けて焼けばよかったと反省。焼けた肉は、はさみで切り分けてくれた。韓国ドラマで見るとおりだ。でも炭火で焼いているのであっさりして美味しかった。最後に大きなバースデーケーキの登場。3月生まれが4人(70代3人、10代1人)参加しているそうで、私と夫もその一人。みんなで祝ってもらった。夫はこの日が喜寿の誕生日だった。皆さんで食べたケーキはとってもおいしく、普段は誕生日を忘れていることが多いのに、皆さんでお祝いしていただき感激。たびせんのご配慮に感謝。

2日目(3月12日・木)


【コース】旧日本軍の秘密通信基地―旧日本軍の飛行場跡・アルトゥル飛行場―モスレポの町(チェジュ島の軍事要塞化の町)―モスル峰の見学―人間魚雷秘匿壕跡―昼食―松岳山(ソンアクサン)オルレコース散策―ヨンモリ海岸の絶景散策―韓国海軍基地見学―夕食(各自)
 
ホテルの朝ご飯はどれもおいしかった。高さんから「緑がかったのがアワビのおかゆで、高級品。体にいいのでぜひ食べてください」と勧められ早速食べた。おいしかった。得した気分になった。早速韓国ドラマでは体調が悪いときに滋養のために、あわびのおかゆを食べる場面があるが、なるほどと思った。

【港町モスレポの町】


チェジュ島は戦前、日本による植民地支配のもとでの軍事要塞の島でもある。敗戦後も7万人もの日本軍が駐留していた。チェジュ島は沖縄の次の「本土決戦のための防波堤」とされていた。旧日本軍の飛行場跡・アルトゥル飛行場には第二次大戦中、南京を爆破するため戦闘機が配備され、格納庫があちこちにあった。その後、モスレポの町中を歩く。今は普通の海辺の町という感じで、道の両側には海鮮料理を提供する食堂があり、入ってみたかった。海女の看板もあった。チェジュ島は海女の町。
トイレに行きたくなり、ガイドの高さんの交渉で銀行のトイレを借りることができた。行員の人は私たちを気にするでもなく普通に仕事をしていた。韓国の小さな銀行を見ることができてよかった。
昼食は食堂「山房山クックスマチップ」でコギクックスを食べた。コギは肉、グクスは麺のことだそうだ。豚骨の濃いスープに豚肉とそうめんが入っているチェジュ島の郷土料理。私は醤油派なので、普段、豚骨ラーメンはあまり食べないが、日本のよりもあっさりしておいしく、夢中で食べたので写真を撮るのを忘れてしまった。残念。

【松岳山(ソンアクサン)オルレコース散策】


いくつものコースがあり、青とオレンジのリボンが目印となっていて、これをたどっていくと気軽にハイキングができるようになっている。結構のぼりがきつく、息が切れたが、頂上目指して「がんばろう」や思い付くままの歌を歌いながら歩く。こんなことしているのは私たちのメンバーだけ。でもなぜか歌うと元気になって足が前に進むから不思議だ。
その後も散策は続き、ヨンモリ海岸を散策。数千万年の歳月をかけて形成された砂岩層の絶壁が美しい自然の名所で、天気が悪いと海藻や雨で滑りやすいので行かないことが多いそうだが、この日は晴天で歩くことができた。むき出しの岩の上を歩くので、足元にも気を付けたり絶壁の岩を見上げたりしながら歩いた。途中、岩のところで海女さんたちがナマコを売っていた。その場でさばくので新鮮でおいしいそうだった。食べたかった。
次に行ったのは、「韓国軍海軍基地」。市民の反対運動があったそうだが、豪華クルーズ船の寄港を口実に2017年に完成した。お茶飲み休憩グループと基地見学グループに分かれたが私は基地見学へ。外から見るだけだが、クルーズ船の乗降ターミナルは閑散としていた。クルーズ船は年に何回かしか来ないわけだから、経済効果はほとんどないと思う。

3日目(3月13日・金)


【コース】石文化公園見学―ソンウプ民俗村見学―昼食―東門市場散策―チェジュ島NANTA(ナンタ)の鑑賞―夕食
【石文化公園】以前テレビで石文化公園を見て行きたいと思っていた。島の守り神トルハルバン(石のおじいさん)が広大な敷地のあちこちに立っていて表情がおもしろい。
像の鼻を触ると男児が授かるという言い伝えがあるそうだ。室内では石がたくさん展示されていた。竜の形や人の顔に見える石がたくさんあり、自然の驚異を感じた。

アワビ黒豚プルコギ定食

昼食はサトヤ食堂で、アワビ黒豚プルコギ定食。小さいアワビがたくさん。黒豚もおいしかった。店員さんが、アワビが煮えたころを見計らって殻を取ってくれた。それを待ちきれず生煮え状態で食べた人もいた。何しろ私たちは食事場所に行くとおいしくビールをいただき、おかずのお代わりをし、楽しく食事ができるメンバーだった。
韓国では鍋料理や焼き肉が多いが、日本のように取り皿がない。韓国ドラマを見ても鍋に各自スプーンを入れてそのまま食べる場面をよく見る。食口(しっく)と言って同じものを食べる文化だそうである。必ず、お箸とスプーンがセットになっている。主食のご飯はスプーンで食べる。ご飯は真鍮の器に入っているので熱くて持てない。だからスプーンで食べるそうだ。日本と違う食文化になるほどと思う。韓国ドラマでは大人でも自分の箸で、おかずを相手のご飯の上に載せてあげる場面が多い。なぜなのか聞き忘れた

【城邑(ソンウプ)民俗村】


1423年から現在まで長い歴史を守ってきたチェジュの伝統的な村の様子をそのまま保存している場所。今も実際に人々が生活している村である。案内のあと、休憩所でお茶がふるまわれた。話が上手なガイドさんがいきなり茶色の小さな粒を掌にのせ「かんで食べてみて」と言った。皆さんがりがりとたべた。薬草っぽい味がした。「冬蟲夏草」という薬草だという。次に馬の骨でつくったという粒「民俗土馬」体にいいという。そして馬油を手の甲に塗り付けた。その後、韓国らしい袋にセットされた品物を示し、「朝晩毎日飲んで5万円。1日500円だよ。健康にいいからね。馬油をおまけするから」と言葉巧みに売り込む。「おまけ、薬草、自然素材」に弱い私は、「ここでしか買えない、自分へのご褒美」とつい買ってしまった。カードで買ったのだが、後での請求は5万6千円だった。今、朝晩馬油を顔に塗り、粒は朝だけ忘れないように飲んだり、かんだりしている。効果は全く自覚なし。でも、骨密度の低下は防げているに違いない、お肌の張りは?などと勝手に思っている

お買い物

【東門市場】
東門市場は市民が買いに来る市場だそうだ。魚、野菜、乾物、衣類、金物など縦横にお店が並んでいる。みんなで高さんの案内で市場を回った。まず目に入ったのが、大きい太刀魚。身が厚くておいしそう。一匹6000円の値が付いているものも。韓国ドラマでも太刀魚はよく出てくる。買えばよかったと悔やんでいるのが干したミカンだ。乾物屋で大きな袋に入って売っていた。高さんからチェジュ島は柑橘類が特産と聞いていたので食べてみたかった。もう一つは折り畳み式の丸いテーブル。金物屋で売っていた。テーブルにご飯やおかずを載せてテーブルごと運んでくるシーンが韓国ドラマよく見られる。みんなから離れると迷子になりそうなのでどちらもあきらめた。
【NANTA(ナンタ)の鑑賞】
4時30分からの開演。ほとんど言葉なしのパントマイム。ストーリがあるが、動きだけでもよくわかり楽しめた。以前韓国に行ったときにオプショナルで、宮廷料理付の宮廷舞踊かナンタを選ぶということがあり、その時は宮廷舞踊を観たのでナンタを観たいと思っていた。プロの演技を堪能した。野菜を切り刻む演技があったが、調べたら、切り刻んだ大量の野菜は出荷不可の野菜を農協のようなところから提供してもらい、使用後は家畜のえさになるとのこと。毎日あれだけの量を捨てるのだとしたらもったいないと思っていたが無駄にしていないでよかった。

夕食

夕食は海苑というお店で海鮮鍋。目の前で生きたままのミズだこ1パイを熱い鍋に入れる豪快なお鍋。たこにはかわいそうだけどおいしかった。島だけに海産物は新鮮でおいしい。食べきれないほどの量。ビールもマッコリもおいしい。

4日目(3月14日・土)


【コース】城山日出峰(ソンサンイルチュルボン)登山―4・3平和公園―昼食(各自)―海女博物館―抗日記念館―夕食
朝食は各自となっていて、添乗員の大西さんが事前に調べてくれたホテル近くの食堂へ。おかゆ定食を提供するお店でとてもおいしかった。ここでも「おかず」付き、900円。ホテルのレストランだとどうしてもたくさん食べるので胃にとってもよかった。前の日にコンビニでパンなどを買った人もいた。毎日、ごちそうなので簡単朝食もよかった。

【城山日出峰(ソンサンイルチュルボン)】


ユネスコ世界遺産になっている。最初のなだらかな登り坂が結構きつく、そのあとの階
段がまたきつく、途中休み休みゆっくり上った。頂上の景色は最高。青空と海と・・。
頑張って登ったかいがあった。

その他見学地

【4・3平和公園・平和祈念館】
展示のすべてが充実していてよかった。「語り継ぐチェジュ島四・三事件」という本や、主人公のルーツがチェジュ島で4・3事件と深くかかわりのある映画「焼肉ドラゴン」、ドキュメンタリー映画「イデオロギーとスープ」などを観て、今回の旅で一番行きたかったところだった。はがきにメッセージを書くコーナーがあり、日本人が行ってみてくれる人がいたらいいなと思い、平和の旅を代表して書いて掲示してきた。また、売店で日本語の展示図録だけが半額というのもうれしかった。約3万人、人口の9人に1人、「アカ」のレッテルを張られ、命を奪われた4・3事件。刻銘碑に刻まれた一人ひとりに生きた証あったということを強く感じることができた。
【昼食】海の近くの食堂で各自の昼食。私は、名物のさくら鯛(違っているかも)の焼き魚定食を食べた。日本と全く同じ定食。違うのは例のおかずが何種類も出てくること。おいしかった。写真を撮るのを忘れた。
【海女(あま)博物館】
海女はチェジュ島と日本にしかいないことを初めて知った。同時に日本の植民地化、民族差別にあらがった海女抗日運動があったこと、その中心に若い海女たちがいて女性たちが主導した唯一の抗日運動だったことも初めて知った。私の好きな韓国ドラマ「私たちのブルース」に出てくる海女たちの連帯や行動力はこのようなたたかいの歴史の上にあることがよく分かった。
【抗日記念館】
最後の見学は日本の加害の歴史を丁寧に展示してあり、抗日運動が様々な角度から描いていた。時の首相が何と言おうと歴史の事実は変えることはできない。
「慰安婦」問題を含め、日本政府が謝罪し、その事実を教科書に載せ教育に位置付けることが求められていると改めて強く思った。

【最後の夕食】


チェウダ定食屋で最後の食事。プルコギとチヂミがおいしかった。部屋を取って、旅の感想を一言ずつ出し合った。母親平和の旅では、可能であれば1日目の夕食と最終日の夕食は、個室をお願いして交流を大切にしている。ガイドの高さんが「4・3事件や戦争や反日運動などが中心のガイドは初めてで、自分も勉強になった。感謝している」と涙ながらに語ってくれた。私たちのためにいろいろ勉強をしたそうだ。高さんはお姉さん家族がアメリカに暮らしているので自分が90代を超えたご両親と一緒に暮らしていること、身内に4・3事件の犠牲になった人がいること、日本には年に2回くらい行き、せんべいや、鳩サブレーが大好きなことなどなど、プライベートなことも話してくれてとても仲良くなった。

【お土産のはなし】     
私たちの旅は、必ず普通のスーパーに連れて行ってもらっている。値段の高い観光用ではなく、普段使いのお土産が喜ばれる。今回もイーマートというスーパーに連れて行ってもらった。高さんにおすすめの品を紹介してもらいたくさん買った。レジでパスポートを示すと免税扱いになるのも便利だ。チェジュ島は温暖な気候から柑橘類が特産品でオレンジを使ったお菓子の種類が多かった。夕食後、孫のお土産を買うために、ホテルの近くのお土産屋を回った。ブランド物のスポーツ用品を扱う店が多く、若者がいっぱいだった。孫には英語でチェジュとかいてあるTシャツやトルハルバンのぬいぐるみを買った。喜んでくれた。ここでも免税扱いしてもらい得した気持ちになった。

5日目(3月15日・日)

ホテル―チェジュ島空港発―成田空港着(13:40)―空港で解散
13時40分発の飛行機に乗るために空港にほてるから直行した。
日曜日のせいか、出国するのに時間がかかり、余裕をもって行動してよかった。予定通り出発して、機内食をいただき、映画をちょっと見たら成田空港に到着した。2時過ぎには解散できて皆さんもラッシュの前に帰宅できた。
ホテルは4連泊。移動のための荷造りの面倒さもなく楽だった。参加者の中には、転んだり、足がつったり・・・。多少のトラブルはあったが、歴史の真実を学び、韓国のビールやマッコリ、おいしい韓国料理、自然を満喫した夢のような充実した5日間だった。何より、全員無事帰国できて本当に良かった。


Ⅲ、チェジュ島の自然・文化・歴史 (木原信義記)

以前からチェジュ島に一度行きたいと思っていた。コロナ前にクルーズの旅でチェジュ島に行きたいと計画していたが、コロナの影響で行けなくなった。私にとって、どうしても行きたい二つの目的があった。

その一つは父がチェジュ島で終戦を迎え、無事に日本へ帰還することができたのであるが、チェジュ島でどんなことをやっていたのかを知ること、二つには、チェジュ島で起きた4・3事件とは何かを知ることであった。この二つを知るうえで、ぴったりの旅が今回であった。これから、旅の様子を描いていくが、私の一番書きたいことは最後の「チェジュ島の歴史」である。
 
  旅を自分の中で豊かにするために、近くの町田市さるびあ図書館からチェジュ島の観光ガイド本、4・3事件に関する本を借りて、事前に学習した。4・3事件はノーベル文学賞をもらったハン・ガンの「少年が来る」を事前に読み、その背景となった軍事独裁政権の野蛮な実態を知ることができた。この項では今回は日本軍のこと、4・3事件のことを焦点化するために、あえて「チェジュ島の自然」「チェジュ島の文化」「チェジュ島の歴史」という構成にした。普通の楽しい観光旅行とは違い、今回は重たいテーマを持って参加した私にとっては、いろいろな発見があり、素晴らしい旅となった。企画をしていただいた「東京母親大会連絡会」のみなさんに、旅行会社の「たびせん」感謝したい。

1、チェジュ島の自然


①空港での印象
 空港についての第一印象は、ヤシの木が多いということであった。まるでハワイのような印象である。しかし、気温は東京とあまり変わりがなく、風がある分、寒く感じた。遠くにハルラ山が見える。標高1950mで韓国最高峰である。チェジュ島はこのハルラ山の爆発でできた火山島である。2007年に「チェジュ火山島と溶岩洞窟群」が評価され、韓国初の世界自然遺産に登録された。
 韓国人にとって、ハネムーンのメッカとして人気があり、その美しい景観から「韓国のハワイ」と呼ばれている。どおりでヤシの木が多いのは、そのためかと思った。チェジュ島各地を回ったが、ヤシの木は空港周辺だけしか見当たらなかった。今や、国際的な一大リゾート地として発展している。


②松岳山(ソンアクサン)オルレコースの散策(2日目午後)
 2日目の午後、松岳山の周りのオルレコースを散策した。オルレとはチェジュ島の言葉で「通りから家に通じる狭い路地」という意味で、今ではトレッキングコースとして韓国では有名である。チェジュ島では40近いオルレコースが整備され、地元の人や観光客に親しまれている。総距離2、8キロ、所要時間約2時間のコースであるが、健脚組(松岳山頂上コース)と周辺歩き組とに分かれ、自然を楽しんだ。
 私は、松岳山頂上コースを選び、まずは頂上を目指した。松岳山はチェジュ島に360近くあるオルムの一つである。オルムとはハルラ山の噴火とほぼ同時に小さな火山が爆発しできた山である。頂上付近は、噴火口が二つもあった。そんなに高い山ではないが、登るときはかなりきつかった。しかし、頂上から見た景色は抜群であった。すぐ近くの海岸線がくっきりと見える。遠くに双子岩が見え、加波島も見える。やはり、苦労しても登ってこないと見られない景色である。海岸線は切り立った崖になっており、火成岩や砂岩の地層がはっきりと見える。チェジュ島はやはり火山島だと分かる。頂上から降りて、海岸線のコースを、景色を見ながらゆっくりと歩く。海から吹き付ける風が強い。手袋していないとやはり寒い。みんなで歌を歌いながら楽しく歩いた。


③ヨンモリ海岸の絶景(2日目の午後)
2日目の午後、松岳山を後にして、ヨンモリ海岸に向かった。松岳山の周りの海岸線もきれいな地層が見られたが、ヨンモリ海岸はそれ以上に素晴らしかった。ヨンモリとは竜の頭を意味していて、この一帯の岩を海水が侵食し、見事な景観を作り出していた。私たちは、海岸コースを一周したが、驚いたのは観光客の多さであった。途切れることなく一列になって 垂直に近い崖の近くの海岸線を歩いた。その迫力に圧倒される。なんと海岸線の近くで店を出して、ナマコや貝を焼いて食べさせている女性たちがいた。
地元の漁業者だろうか。あまりにもすごい景色に見とれて、足元の岩につまづく人もいる。ゴール近くは急傾斜の岩を登らないとたどり着けない。参加者の一人が、足がけいれんし歩けなくなった。私は咄嗟に救援に向かった。見知らぬ韓国人の青年にも助けられ、何とかその方は登りきることができた。岩と波とで作り上げた自然の造形を、たっぷりと味わうことができた。しかし、この日はハードな一日であった。翌日、筋肉痛で足が痛かった。

④城山日出峰(ソンサンイルチュルボン)(4日目午後)
 4日目の午後、チェジュ島を代表する城山日出峰に登った。チェジュ島の東側にあり、巨大な王冠のような形をした火山である。海底火山の噴火で生まれた山で標高は182m。オルムの一つである。ユネスコの世界自然遺産に登録されている。頂上まで階段が急傾斜で続き、かなりハードであった。しかし、頂上から見た景色は、疲れを吹き飛ばす絶景であった。周囲は絶壁で登ってきたところだけしか上り下りできない。韓国では元旦の日の出を見るために多くの人がこの山頂に来るという。山頂からは巨大な噴火口が見える。また、この山と陸地をつなぐ砂州が見える。近年、観光客が押し寄せ、この山の周りにたくさんのお店ができた。また巨大な駐車場もつくられている。道路も拡張され、賑やかである。
 中国の九塞溝もそうであったが、観光客がどっと増え、地元は潤ってきているに違いないが、自然環境が悪化しているとのことで、ここも心配である。
 たくさんの中国人が団体で来ている。日本との関係悪化で、こうした韓国の観光地に大挙して来ている感じがした。城山日出峰を登る途中に珍しい岩があった。映画に出てくる「ゴジラ」にそっくりだ。本当の岩の名前は別にあるようだが、私は勝手に「ゴジラ」と名付けた。やはりよく見ると、ゴジラの横顔に見える。自然の芸術である。

2、チェジュ島の文化


①石文化公園(3日目の午前)
3日目の午前中、チェジュ市の郊外にある「石文化公園」行った。チェジュ島が火山島としてどのように造られてきたかを立体的な映像でまず入り口すぐの部屋で見せてくれた。30万年前の大噴火の様子から次第に火山島として成り立ってきた過程を分かりやすく見せてくれる。館内にはいろいろな岩石が並べられていて、自然の芸術をこれでもかこれでもかとそのすごさを訴えている。展示した人たちの思い入れを感じた。外に出ると、チェジュ島の人々が、この石を使ってどのように暮らしていたかが分かるように展示してある。巨大な石臼や石像が目に付く。島の守り神トルハルバン(写真右 おじいさんの石像)が多い。チェジュ島は昔から女性が多い。男性は漁に出て遭難し、亡くなる人が多いためだという。この石像の鼻を触ると男児が授かるという言い伝えで、島内各地の村々で造られた。厳しい自然を生き抜く島民の願いが込められている。小さな石を積み上げて、ピラミッドのようになっている造形物があった。私も小さな小石を拾って一つ積み上げた。そして世界平和とわが家族の幸せを心の中で祈った。このようにチェジュ島の石文化を世界の人たちに発信する施設を持つ韓国の文化の高さに驚いた。


②ソンウプ民俗村(3日目の午後)
3日目の午後、昔ならではの民家の特徴を継承し、保存されている民俗村を訪ねた。バスを降りて、まず案内された村で驚いたのがトイレのことだった。豚の置物がある青空トイレで、案内の女性がうんちをする態勢を取りながら、うんちをするのを待っていて豚が食べに来るということを手振り身振りで話してくれる。その豚を大事に育て食料にする。循環型の生活である。おおらかで自然の力を上手に使ったこのような生活が、私たちに現代社会が持つ、あまりにも大量生産、大量消費の便利ではあるが自然を壊する生き方に警告を発しているようにも思えた。
なんとこの案内の女性は、商売上手。ある部屋に私たちを案内し、高額な薬草や化粧品を売りつけることに成功していた。
 民俗村を案内され、韓国ドラマに出てくる時代物が、よくここで撮影されているということも聞いた。チェジュ島は王朝時代、島流しの刑でやってくる両班(貴族)が住み、生活していた。その人たちが村の中に学問を学ぶ学校を作り島の子どもたちを教えていた。そうした学校が今も保存されていた。
その日の昼食は、民俗村にあるレストランで食べた。アワビがたっぷりと入った「アワビ黒豚プルコギ定食」で、とてもおいしかった。


③NANTA(ナンタ)(3日目の夕方)
民俗村の後、韓国が誇る芸術集団「NANTA」を観に行った。「NANTA」は1997年に創立され、その年の10月に初演した。ソウルとチェジュ島の2か所に劇場を持ち、団員が毎日演じている。これまで60か国325都市で50005回の公演し、15,188,864人の観客を楽しませてきた。フライパン、まな板、鍋、包丁を楽器にして、韓国独特の「サムルノリ」リズムでコミカルに5人の個性の強い登場人物が演じる。セリフは一切ない。だからどの国の人でも、一緒に笑い、楽しむことができる。見事だったのは、5人の包丁さばき、息がぴったりと合い、猛スピードで野菜を切っていく。これは日ごろからものすごい訓練をしていないとできない。ステージに立つ前の役者の努力を感じさせてくれた。韓国に来たら、一度は観たい芸術だと思った。なお、切り刻んだ大量の野菜は出荷不可の野菜を農協のようなところから提供してもらい、使用後は家畜のえさになるとのこと。毎日あれだけの量を捨てるのだとしたらもったいないと思っていたが無駄にしないでよかった。


④海女(あま)博物館(4日目の午後)
 海で働く女性を「海女」という。海女はここチェジュ島と日本にしか存在しない。日本の海女はチェジュ島の海女たちが出稼ぎで広がったという。だから海女の源流はやはりチェジュ島である。なぜ、海女がチェジュ島で根付いたのか。それは島の厳しい環境にある。漁師の夫が遭難で帰らず、島には女性が多くなってきた。彼女たちには自立した生活が求められ、素潜りで海のなかの海産物を採るようになった。チェジュ経済を支えるまでになった海女たちは、しっかりとチェジュ島にその存在感を示していった。
 4日目の午後、城山日出峰から20分位のところにある「海女博物館」に行った。そこには、海女の日常生活からチェジュ島の海の生物、環境が見事に展示してあった。豊かな海の資源の中で海女の生活が成り立っていたことがよくわかる博物館であった。しかし、その中で海女たちがチェジュ島の歴史にかかわる事件については、その博物館の外にあった。
その象徴的な事件は、博物館の外の小高い丘の上にある塔が示していた。「チェジュ海女抗日運動記念塔」と書かれていた。1932年、植民地収奪と民族差別に怒った海女たちが引き起こした韓国最大規模の女性抗日運動である。その時の3人の指導者である海女の胸像もあった。どの人も20代、30代である。その丘の下の広場でテントが幾つも建っている。中央演壇では、何かリハーサルをしている。ガイドの高さんに聞くと、この日の翌日、チェジュ島全島から人が集まり、海女抗日運動を記念する集会をするという。チェジュ島の政財界の人たちが列席するという一大イベントだという。海女が起こしたこの事件は今やチェジュ島の誇りとなっていた。
実際の海女さんを城山日出峰に行ったときに見た。海から上がってきた海女さんにカメラを向けると「肖像権がある」と怒られた。やはりその迫力はすごい!

3、チェジュ島の歴史


<軍事要塞の島>
① 日本軍による占領支配の島
 今回の旅は、チェジュ島の歴史について現地を訪ねて知りたいという目的があった。二つのことを調べてみたいと事前に学習もしてきた。一つは私の父が終戦間際までいたチェジュ島で何を任務に軍隊にいたのか。もう一つはチェジュ島の悲劇、戦後に起こった4・3事件の全貌、真相を知りたいことであった。
私の父、木原利雄は1945年(昭和20年)3月22日に「軍令陸甲第21号第96師団臨時動員発令」として徴兵された。歩兵第293連隊整備要員として入隊し、4月4日に佐世保港を出港し、4月9日にチェジュ港に上陸した。上陸後第293連隊第4中隊に編入され、戦場となるであろう現地に派兵された。しかし、そこがどこなのか生前父は何も語らず、書類からではわからない。この旅で父の足跡を調べるという目的があった。そもそも何故、父は終戦間際のこの時期にチェジュ島へ派兵されたのか、その疑問がガイドさんの話や大西添乗員さんからの話でわかってきた。
日本軍部はアメリカによる日本全国の空襲爆撃から追い詰められ、本土決戦を構想していた。そのために米軍が上陸するであろう沖縄とチェジュ島に兵力を投入していた。父はその作戦で投入された一人であった。沖縄が占領されるや、今度はチェジュ島に上陸すると予想し、7万5千人の兵隊をチェジュ島に投入し最終決戦に備えた。父は玉砕(全滅)覚悟で、済州島にいたことが分かった。


②旧日本軍の秘密通信基地(2日目の午前)
 旅の2日目の午前、当初予定になかった「旧日本軍通信秘密基地」をガイドの高さんが案内してくれた。バスは市街地を抜けて畑が広がるところでバスを止めた。そこから遠くにモスル峰が見える。モスル峰はチェジュ島に多くあるオルムの一つであるが、このオルムは韓国防衛にとって欠かせない役割を果たしている、それは、この山の頂上にある通信基地が中国や日本の情報収集の任務を今も果たしているからである。韓国軍は常時、戦時体制をとりながら活動している。このような地理的な位置に目をつけて、旧日本軍も通信基地を外部から目立たぬように造っていた。
こんもりとした丘のようなところに飛び出た五本のコンクリートの柱がある。道路沿いにドラム缶を横にしたようなものがあった。実はこれが通信基地への出入り口であった。外部からはまったく分からない。日本軍もモスル峰頂上に通信基地を造りたかったと思う。しかし圧倒的な制空権を持つ米軍に簡単に破壊されるだろう。ここは米軍に爆撃されないように巧妙に造られていた。この場に看板もない。チェジュ島の人たちさえ知らないこの場所を、よくぞ調べて案内してくれたと、高さんに感謝したい。

③旧日本軍の飛行場後(アルトゥル飛行場)(2日目の午前)
 旧日本軍の秘密通信基地を見た後、島の南の端に位置する旧日本軍飛行場跡を訪ねた。海岸近くの草原のようなところが旧日本軍の飛行場跡だった。ガイドさんの案内で歩いたが、かなり広大である。今もここが残されているということは、今後軍事利用も考えられているようだ。地元の住民は土地の返還を求めているが、今も韓国国防省管轄の土地となっていて拒否されている。
 途中にゼロ戦を隠す掩体壕(エンタイゴウ)があった。周辺の掩体壕を数えると10近くある。米軍の爆撃に備え、戦闘機を隠し守ろうとしていたことが分かる。韓国語の表示があり、何を説明しているのかわからないが、その横に子ども向けの漫画解説があり、だいたい意味が分かる。一つの掩体壕の中に、針金だけで造ったゼロ戦が置いてあった。このように本物のゼロ戦を隠していたことがリアルにわかる。漫画の解説からこの土地一帯が軍事要塞化され、米軍との最終決戦に備えていたことが読み取れた。
 そこから20分ほど歩いて小高い山の上に来た。そこに高射砲の陣地跡があった。高射砲はもうないが、コンクリートでできた陣地跡は頑丈で今でも残されている。ここから爆撃に来る米軍機を打ち落とす作戦であったようだ。次の予定があって、バスに乗りこんだ。その中で、参加者の皆さんに初めて、自分の父がここに兵隊で来ていたことを明かした。そして、父が「日本軍はチェジュ島を引き上げる時に全ての食料を焼き払った」と言っていたことを話すと、ガイドの高さんが
「私の父は、その結果、島から食べ物が無くなり、松の木の皮をはいで食べていた」と語ってくれた。私の中で、父の戦争と韓国の人々とのつながりがこの時はっきりとした。日本の韓国占領支配は、このように韓国の人々を苦しめていたということだ。しかし、父はチェジュ島で何をしていたのかはまだこの時点ではよくわからなかった。


④人間(にんげん)魚雷(ぎょらい)秘匿(ひとく)壕(ごう)跡(あと)(2日目午前)
 チェジュ島の海岸線は、火山島としての特徴から、切り立った断崖が多い。二日目の午後に歩いた松岳山オルレコースで、その断崖の自然の洞窟(海水で侵食されたもの)を使った旧日本軍の魚雷秘匿場所を何か所か見た。まさに自然の要塞である。ここだけではない。四日目に登った城山日出峰の海岸線に、同じような洞窟があり、人間魚雷「回転」の特訓基地となっていた。地元でしっかりと保存され、日本帝国主義の支配の痕跡を後世に伝えている。
 特別攻撃隊(特攻)はゼロ戦による飛行機での攻撃が知られているが、このように人間魚雷として特攻隊を組織し、生きて帰れない人間兵器を当時の軍部は養成していた。私の叔父忠行(父の弟)は特攻隊の予備軍である予科練で終戦を迎え、死にきれなかった自分を責めながら、炭鉱の中で喧嘩し、腹を刺されて亡くなった。私が誕生する三日前の出来事だと母に教えられた。「あんたは、忠行さんの生まれ変わりばい」といつも言われた。戦争は、生き残った者も苦しめ、人生を狂わせてしまう。

⑤抗日記念館(4日目午後)
4日目の午後、「抗日記念館」を訪ねた。ここで父が、チェジュ島のどこで任務を果たしていたのかがよく分かった。この記念館は日本の支配に対して、韓国全土でどう抵抗したのかが分かるように展示してあった。それに加えて、1945年(昭和20年)6月からチェジュ島にどのように日本軍が展開したのか、チェジュ島の地図で克明に紹介していた。それによると父がいた96師団はなんとハルラ山頂上付近に展開して陣地を作っていた。父は山奥の中で、米軍が上陸した後、最終決戦に備え、ゲリラ戦の訓練をしていたようだ。海岸線に多くの高射砲や大砲など重火器が設置されていたのに比べて山間部では身軽に戦えるゲリラ戦法をとっていたようだ。父は最後の一兵になるまで玉砕覚悟の訓練をしていたと思われる。生きて帰れないという中で山の中、どんな思いで過ごしていたのだろうか。
展示して得る資料の中に、8月6日、9日の原爆投下を受けて、日本政府は突然に無条件降伏し終戦を受け入れたことを受け、チェジュ島内の日本軍がバタバタとしていた様子が写真などから分かった。武器を一つ残らず海中に捨てている写真、96師団の司令官がチェジュ島の米軍司令官に降伏に調印している写真などがあった。父が言っていた食料を全部焼き払ってきたという証言を裏付ける写真はなかった。が、実際に起こったことは間違いない。
 何はともあれ、この突然の降伏は、チェジュ島7万5千人の日本兵士の命を救うことになった。父が生還できたのは奇跡のようなことであったのだ。
 この抗日記念館で、他人事でない身内の戦争を感じながらじっくりと観ることができた。この展示館は、韓国の人たち以上に日本人こそ見なければならないと強く思った。韓国の人たちにとって、この戦争は被害の戦争である。しかし、日本人にとっては加害の戦争なのである。目を背けず、事実に向き合ってこそ両国の友好が深まると感じた。


 【町田市に全国で79番目の九条の碑】
戦後、二度と戦争しないと世界に向かって誓い、憲法九条に「戦争放棄」を条文に入れた。それを崩そうとする自民党政権に対して日本全国各地につくられている九条の会が、今、「九条の碑」を建てようと運動している。私たち町田市でも全国79番目の「九条の碑」として4月4日に除幕式を行った。少女がほうきにまたがり、戦争放棄を世界中に広げようとの意味が込められた素敵な碑である。QRコードを読み取ると、町田在住のヒロコさんがつくり、自身が歌っている「ほうきの約束」という歌が流れる。チェジュ島で真相をつかむことができ、私にとって忘れられない旅となった。


⑥韓国軍海軍基地(2日目夕方)
ヨンモリ海岸を歩いた後、近くの「韓国軍海軍基地」を訪ねた。基地の周りは基地に務める兵士や家族のために団地や商店が立ち並び、一つの街となっていた。海軍基地を見渡せるように展望台があり、そこから海軍基地の様子を見た。入り口は兵士が厳重に見張っていた。今でも韓国は北朝鮮とは休戦しており戦時状態である。徴兵制もあり日本以上に戦争に対して危機感が強い。中でもチェジュ島は、中国とも近いという地理的なことから中国に対してのレーダーが今も稼働している。日本軍がいなくなった後、米軍とともに中国・北朝鮮・ロシアに対して最前線の役割を今も果たしている。チェジュ島は今も軍事要塞の島なのである。


<虐殺の島 4・3事件>
①事前学習から
 この旅行の最大の目的は、4・3事件について現地を訪問し、その実態を知りたいということであった。この目的は、4日目に訪問した「4・3平和公園」の中の資料館を見学する中で、ほぼ達成することができた。その様子は後ほど詳しく紹介したい。
「4・3平和公園」が旅行先の一つにあるということで、事前に4・3事件を扱った本を読んで、学習した。その本は「語り継ぐチェジュ島 4・3事件」(許榮善著 村上尚子訳 新幹社)である。4・3事件の背景、虐殺の様子、生き証人の証言、4・3事件後のことなどが詳細に書かれている。この本を読みながら、その事実の重さに打ちのめされる。30年近くこの事実が韓国や世界の間で隠されてきたこと、政府が国家権力の過ちを認め、チェジュ島民に謝罪するまで55年間かかったことなどがこの本から分かった。
 また、ノーベル文学賞をもらった韓国出身の作家ハン・ガンが4・3事件を描いた「別れを告げない」を書いていることを知り読んだ。この作品は、「少年が来る」と同様に死んでしまった人の魂を主役に悲惨な出来事を描いている。「少年が来る」は光州事件で死んだ少年の魂が主役であった。「別れを告げない」では4,3事件を体験し生き残った友達の母親の魂が主役である。独特の描き方であるが、それだけに真実味があり、4,3事件での虐殺の事実が浮き彫りになっている。小説という手段で韓国の闇を描いた勇気が国際的に評価され、ノーベル文学賞の受賞につながったと納得した。


②高射砲陣地跡に行く途中にあった大きな穴
2日目の午前、アルトゥル飛行場跡を案内してもらった後、小高い丘の上にある高射砲陣地を歩いて見に行くことになった。その途中に大きな慰霊塔があった。慰霊塔にはたくさんの人たちの名前が刻まれている。その慰霊塔のすぐそばに大きな穴があり、周りを綱で囲っている。慰霊塔と関係のある穴だということが分かる。慰霊塔の前に案内板があったが韓国語でよくわからない。旅が終わって調べて分かった。この穴は4・3事件の虐殺の現場であったのだ。200人近い人たちが殺されて埋められていた。最近、この事実が分かり、慰霊塔が建てられ、穴も保存されたということが分かった。被害にあった人たちは、朝鮮戦争が勃発して、予備検束で逮捕され、そのままここに連行され虐殺された。4・3事件の2年後であり、この時はチェジュ島全体が虐殺の島となっていた。韓国人が韓国人を無差別に、しかも無抵抗な人たちを殺すことができるのか、今もなお韓国の歴史に大きな傷を残し、検証が進められている。


②観(かん)徳亭(とくてい)広場(3日目午後)
 3日目の午後、ソンウプ民俗村を訪ねた後、チェジュ市の近くにある「東門市場」を見学した。見学した後、時間があったので歩いて10分の所にある「観徳亭」を数人で見に行った。ガイドの高さんから見に行ったほうがいいですよとのアドバイスはあったが、次の集合時間まであまり時間がない。駆け足に近い早歩きで息を切らしながら観徳亭まで歩いた。事前学習をしていなかったら見過ごすところであった。
実は、そこが4・3事件の引き金になる現場であった。1947年3月1日。この日は、1919年3月1日に起きた「3・1独立運動」を記念する「第28周年、3・1記念チェジュ島大会」が観徳亭広場で行われたのである。この広場に2万5千人から3万人の人たちがチェジュ島各地から集まっていた。7万5千人もの日本軍兵士がチェジュ島から撤退し、代わりに日本から強制労働に駆り出されたチェジュ島民が6万人帰国していた。日本軍は食料を焼き尽くし、チェジュ島は麦も取れない大凶作で島民は飢餓状態であった。追い打ちをかけるように島中にコレラが広まり、死亡者は369人となっていた。
 チェジュ島の新たな支配者、アメリカ軍政はこの事態を打開するどころか米穀収集令を発動し、日本軍と同様の「供出」を命令してきた。怒った島民が、「米と自由をくれ!」と立ち上がったのがこの日の集会であった。当初は、整然としたデモであったが、弾圧体制を準備していたアメリカ軍政は午後2時45分ごろ、騎馬警官が乗っていた馬の蹄に一人の幼子が蹴飛ばされ、それを見た群衆が怒り、騎馬警官に向かって石を投げたところ、それを合図に一斉射撃が始まった。6人が死亡し、6人が重傷を負った。
 この「3・1事件」は1948年4月3日に起きた4・3事件の導火線となり、チェジュ島全土を虐殺の島へと飲み込んでいくことになった。アメリカ軍政は、この3・1事件を利用して当日集まっていた島民に対する取り調べを翌日から開始した。


④モスレポの町(2日目午前)
2日目の旧日本軍の飛行場跡を見に行く前に、近くにある「モスレポの町」を訪ねた。ここは日本がチェジュ島を要塞化するうえで拠点とした町であった。銀行、郵便局、警察署が日本によって建てられ、狭い地域に集約されていた。今では当時の建物はなく、立札が当時の様子を知らせている。高さんによると現地の人も今ではここに郵便局や警察署、銀行などがあったことは知らないという。戦後もこの建物は維持され、アメリカ軍政によって利用されていた。高さんの説明で、ここにあった警察署は、4・3蜂起によって武装隊に襲撃され、家族を含めて全員が殺されたということであった。
なぜ、このような悲惨なことが起きたのか。「3・1事件」の後の弾圧はますますひどくなり、警察による拷問のひどさに怒った島民はその年の3月10日に「ゼネスト」で対抗した。「拷問やめよ!3・1発砲責任者を辞任させよ!」など6項目でアメリカ軍政に迫ったが、逆にアメリカ軍政はゼネスト首謀者の逮捕に乗り出していった。彼らは、3・1事件を暴動とし、背後に左翼が先導していると決めつけた。チェジュ島は左翼による南朝鮮に対する組織的な戦術で動かされ、「アカい島」となったと見なしたのである。そして、4・3事件へとつながり、チェジュ島全島で虐殺の嵐が吹き荒れることになったのである。警察など弾圧機構は、日本帝国時代の組織のままで、韓国でそのまま引き継がれ、日本人に代わって韓国人が自国民を弾圧した。このことからも、日本の果たした傷跡は大きい。


⑤4・3平和公園(4日目午後)
 4日目の午前、予定を変更して城山日出峰を見に行く前に、4・3平和公園に行った。私にとって最大の目的地である。毎年、ここで4月3日、4・3事件を追悼する国家行事が開かれている。旅が終わった後、4・3事件追悼集会の様子が日本の新聞でも大きく取り上げられていた。
 この公園には4・3事件の概要を紹介する展示館と墓標で埋められた広場で成り立っている。毎年行われる国家行事は、墓標のある広場でたくさんの人々が集まり、開かれている。予備知識があってそれなりに知っていたつもりであったが、実際展示してある事件や虐殺現場を見て、ショックだった。予想してよりもはるかに虐殺の規模は大きく、また残虐であった。写真や当時の洞窟の中での白骨の状況をみると、チェジュ島の中山間部の住民すべて虐殺の対象であったことが分かる。それも無差別殺人である。韓国人同士でありながら、子どもであろうと老人であろうと妊婦であろうとまったく容赦しない無抵抗な人々を殺しまくったことがよくわかる。どうしてこんなことがチェジュ島で起きてしまったのか、4・3事件の闇がこの展示館で示されている。
当時のアメリカ軍政と朴軍事独裁政権による国家権力を使った犯罪である。かろうじて生き延びた人たちは、韓国に軍事独裁政権が続く間はこの事件を語る自由はなかった。韓国民主化運動の中で、今日やっと4・3事件の闇が語られるようになり、韓国政府としての謝罪となり、式典も開かれるようになったのである。なぜ、この島で無差別の虐殺が行われたのか、この展示館は生々しくその状況を観る人に教えてくれる。
 1945年8月15日、日本が全面降伏し朝鮮全土が解放された。独立した朝鮮を望む人たちは朝鮮全土での選挙を目指したが、アメリカ軍政部は、1948年3月1日、「南朝鮮だけの総選挙実施」を発表した。これに対して朝鮮全土で抗議の行動が起き、それに対する弾圧も強くなっていった。チェジュ島では当初、南労党を中心にして共同戦線がつくられ、「南朝鮮単独選挙反対、統一選挙実施」を求める穏やかな抗議行動が広がっていた。しかしチェジュ島の朝天中学院生の金用哲が朝天支署で拷問によって殺された。モスレポの警察署でもある青年が拷問で殺された。
1948年4月3日、朝天面新村里にある民家に集まった南労党委員会は、12対7の多数決で、武装蜂起して弾圧を跳ね返す方針を決定する。この結果、チェジュ島で拷問弾圧のあった警察署を襲撃し、警察官や家族を殺す事件に発展したのである。この武装蜂起が大量虐殺の引き金となっていったことがよくわかる。武装隊は攻撃対象を警察、公務員、右翼青年団に向けられていた。武装隊は300人くらいで成り立っていた。これに対してアメリカ軍政はこの事件を利用し、チェジュ島全土を「反共の島」にするために韓国軍を動員し、北朝鮮から逃げてきた反共右翼の青年団を動員した。チェジュ島への交通を一切遮断し、逃げ道を亡くした。
10月には「海岸線から5キロメートル」のところに居住することを禁止し、見つけ次第射殺することを宣言する。すなわち中山間部のすべて人が住めない地域となり、山へ逃げ込んだ人々が虐殺の対象となっていったのである。しかし、海岸部に住む住民も他人事ではなかった。住民の中に一人でも親族が山間部いることが分かれば、「代殺」として身代わりに殺された。連座制である。こうして殺された人々はわかっているだけでも3万人、わからない人たち、すなわち村全体が殺されていて誰が住んでいたのかもわからない人たちを含めるともっと多くなる。
この人たちの墓標が広場に設置されている。毎年、新たに分かった墓標が建てられている。この広場には、殺された人たちの怨念がこもっているようにも感じられた。ぜひ、皆さんにも訪ねてほしいところである。
この公園を後にするときに、私はお土産として、「チェジュ4・3平和祈念館常設展示館展示図録 日本語訳」を買った。これを見ると展示館の展示がほぼわかる。その時椿の花の絵ハガキをもらった(写真左)
もう一つは「椿の花のキーホルダー」を買った。韓国語でそのいわれが書いてあった。これは2人の孫娘のためにである。椿はチェジュ島のシンボルになっている。椿の花の赤さは4・3事件で殺された赤い血でもあると言われている。孫にはこんな悲惨なことをどう伝えられるかわからないが、大人になったとき、この事実に向き合ってほしいと願っている。

Ⅳ、まとめにかえて
チェジュ島には「三多三無」という言葉があり「三多」とは「石と風と女性が多い」という意味。なぜ女性が多いかというと、男達が海に漁に出てそのまま遭難して戻ってこなかったなど、当時チェジュ島の男性の死亡率が高かったことから由来するのだそうだ。「三無」は「泥棒と乞食と(泥棒よけの)大きな門がない」という意味。石だらけの自然環境が厳しいチェジュ島では昔から隣人との協同精神が発達しておりそのため泥棒も乞食もいない、だから大きな門も必要ないという話からきています。実際民俗村の民家の前には門はなく代わりに3本の棒が横に並んで通されていた。 
私にとって、今回の旅は中身の濃い、充実した旅だった。企画していただいた東京母親大会事務局の皆さんに感謝申し上げたい。また、行き届いた旅をサポートしていただい「(株)たびせん」のスタッフの方にもお礼申し上げたい。
なにより同行していただいた大西健一社長には、皆さんの健康管理からスケジュールの調整などお世話になり感謝したい。ガイドの高さんとの出会いは、私にとって奇跡の出会いで、父との接点を深く感じることができ、素晴らしい旅になったことに感謝。また、お会いしたいと強く感じた。
 一緒に旅をした皆さんとの出会いも素晴らしいものだった。一緒に歩き、山に登り、一緒に歌い、お酒を飲んだ。参加者の中で私一人だけが男性であるという負い目もあったが、いつのまにかその垣根もなくなり、皆さんの会話に溶け込むことができた。感謝申し上げたい。
 今回の旅は、私にとって観光旅行と違って文字通りの平和の旅だった。その目的をはたすことができ、大いに満足している。
4・3事件は私たち日本人にとって他人ごとではない。日本は朝鮮や中国を侵略し、抵抗する人たちを虐殺してきたからだ。特に朝鮮では言語を奪い、名前まで日本名に強要した。朝鮮国そのものを消し去り、属国とした。朝鮮人に対する差別意識は今でも日本人の中に根強くある。お互いの歴史を知り、理解すること、支配者側の歴史観ではなく民衆側の歴史観で共有していきたい。
今でも無法な戦争がイランやウクライナ、ガザで続けられている。「憲法九条を持つ国」として、戦争や大量虐殺を許さないと、これからも4,3事件を学びながら韓国の人たちとも協力して、世界平和のために声を上げ続けていきたい。

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